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怪文書置き場

STBTYR 2-1

1.
 ルドノア共和国にとってこの十年ほどは、植民地時代の統治戦略に端を発する民族紛争と多国籍軍の強引な軍事介入が終わり、実質的な占領状態から民主化プログラムの実施を経てようやく訪れた、平和な時間だった。しかし『ルドノアの子どもたち』による伯爵の暗殺後、ルドノアの治安は坂を転げ落ちるように悪化していた。ルドノアが平和な間も周辺国で対立を続けていた武装勢力が教会の混乱に勢いづいて侵攻しはじめたのだ。国境では散発的な戦闘が増加している。ワーグらが潜伏している首都郊外でも戦闘が起きるのは時間の問題だった。
 相対的に治安の安定した隣国までは航空機を使い、そこからルドノアの教会支部と取引のある輸送業者のトラックで物資に紛れ、首都まで潜入する――マリアと礼拝技術部の用意したプランは、途中までほぼ完全に機能した。状況が変わったのは、ルドノアに入国してからだった。ルドノア内は検問が多数設置され、首都への経路は明らかに警戒されていた。国境越えのためにルドノア軍の将軍の名前入りの通行証を用意していたが、いつまで通用するか分からない。目的の時間までの余裕は十分あった。シーナとカリンは計画を変更し、首都の手前二十キロ程度のところでトラックを降りて徒歩に切り替えることにした。

 太陽が登りきる少し前だった。無言で街道を歩くシーナとカリンの姿は、隠密行動用の魔術によって可視光とサーモスコープ、近距離レーダーの波長に対して透過する。今の二人は太陽に灼かれた地面から微かにのぼる陽炎ほどの存在感もない。魔術的探査の兆候はなかったが、二人は使い魔を斥候として放って周辺を警戒しながら首都を目指した。
 ルドノア政府と教会、合衆国政府の関係は良好といえるが、諜報に関しては信頼関係は皆無といっていい。ルドノアの正規軍と教会の執行機関が敵対関係にあるわけではないが、『子どもたち』に教会側の動きが漏れる可能性が排除できない以上、教会はルドノアの国軍および市民を潜在的な敵、その領土を敵地とみなして行動する必要があった。
 しかし目の前の難局を確かに認識しながら、シーナははっきりと気分が高揚していた。まぎれもない敵地にいるという危機感と恐怖は、むしろその燃料になっていた。
 シーナにとって、ルドノアと虐殺の記憶は分かちがたく結びついている。だからシーナは伯爵に連れ出されてからその後の情勢を調べることに積極的ではなかったし、ルドノアを思い出させるものからも距離を取っていた。この国に戻ることなど二度とないと無意識のうちに決めつけていた。しかしいまこうしてルドノアに戻ったシーナを虐殺の記憶が苛むことはなかった。シーナは、いまのルドノアを、カリンと赴いた紛争地帯の一つとしか認識できなかった。
 シーナは前方に視線を向けた。背筋をぴんと伸ばし、周囲をするどいまなざしで警戒しながる進むカリンを、いまは魔術で姿を隠して目で見ることはできないが、確かに感じることができる。子どものころにはいなかった、自分を導いてくれる存在だ。だから忌まわしい故郷に戻っても己の記憶に溺れたりしないーーそう思うと自然と歩くペースが上がりそうになり、シーナはそのたび落ち着けと自分に言い聞かせた。

 街道は軍の車両が頻繁に行き交っていた。国境への増員と首都の警戒が並行して進んでいるようだ。首都の入り口の検問では装甲車まで配備されていたが、今の二人に対しては何の意味もない。通行を許可された車両の脇をやすやすと通り抜けて首都に入った。
 首都内部でも兵士たちの姿は目立つが、それでも商店や広場は一般市民にあふれ、活気があった。人混みに紛れるには十分だと判断し、二人は路地に入ると透過魔術を停止した。ここから先は、いつ『子どもたち』と戦闘になってもおかしくない。大聖堂への接続数が限定されるこの状況で、戦闘用魔術を展開しながら透過魔術を維持できるほどの大量の魔力をまかなうあては、カリンにもシーナにもなかった。
 カリンが指輪やネックレスに指を這わせて魔術道具の動作を確認する横で、シーナはバックパックから電磁波シールドのパックから三つの携帯電話を取り出した。二つは廉価な民生品だが、一つは教会の機密を扱う人間に支給される特殊タイプだ。それぞれ電源を入れ、ルドノアの通信業者のネットワークに接続し、システム監視コンソールを起動する。民生品の二つはすぐにマルウェアに感染すると、端末のデータをどこかへ送信していた。行き先の候補、マルウェアをばらまいた容疑者はいくらでもいる。あくどい小売業者、情報封鎖したい製薬会社。そのおこぼれにありつこうとするマフィア。さらにそいつらの首根っこを押さえたい警察機関。『子どもたち』の可能性も、それを警戒するルドノア軍やPMSCの情報部隊、公的諜報機関――ルドノア政府のものはもちろん、CIAやその下請けの線も十分ありえる。二つの携帯電話が『汚れた』ことを確認し、シーナは一つをカリンに渡し、もう一つを自分のバックパックに戻した。
 一般人が購入できる民生品の情報機器は、この五年以上、各種演算性能の向上が止まっている。先端情報機器の製造コスト上昇が、『一般消費者向けの、従来製品より廉価かつ高機能な情報機器』というマーケティングを過去の遺物としてしまったのだ。一般消費者が今持っている機器より高性能なものが欲しくても、その商品は通常品の百倍以上の価格になってしまい、企業や富裕層しか手に入れることができない。市場に流通する機器の処理性能が頭打ちになったことで、それらがネットワークに接続するさいの暗号通信やセキュリティシステムも、その性能の向上が難しくなった。つまり、従来型セキュリティしか使うことができない従来型機器のネットワークは、一部の『持てるもの』の新型機器による攻撃に対抗することができないのだ。先ほどのシーナたちの携帯電話のような民生機器のネットワークの汚染――データ傍受、監視・盗聴の横行は、これらの状況が生み出した必然だった。コモ・ライン――通常回線と呼ばれる民生機器のネットワークでは、もはや通信インフラに支えられたプライバシーやセキュリティは存在しない。コモ・ラインにおいて商取引はその汚染性に見合った規模のものに限定され、一般消費者は自身の情報の漏えいを許容可能なリスクとすることを現代の文化として受け入れた。
 その文化を経済力を持って拒否することができるものたちの『クリーン』なネットワークは、セク・ラインと呼ばれている。民生機器とは隔絶した処理性能を前提としたセク・ラインの通信システムは、セキュリティ突破の難易度もコモ・ラインとはまったく違う。通信は傍受されるものと考える必要があるコモ・ラインに対して、セク・ラインはその心配はない。シーナたちは、コモ・ラインの端末を市民に偽装するために、セク・ラインのものを教会と通信するために用意していた。
 シーナはもう一つの携帯電話――セク・ライン用の端末を起動した。礼拝技術部の支援コンピュータおよびラボのデータベースとのリンクを確立。何者かに通信を傍受されている形跡はなし。シーナは手早くラボで今も行われている実験のサマリーに目を通した。実験のデータは、ラボから何千キロと離れたルドノアでもセク・ラインを経由してリアルタイムでチェックできる。出発のぎりぎりまで粘ったが、大聖堂一つ分の魔力で『子どもたち』――ワーグを倒す手段は、まだ見つからない。ぎりぎりまでとにかくあがき続けるしかなかった。
 準備が終わった。正午をすぎ、気温はじりじりと上昇して日中のピークを迎えようとしていた。大きな翼のついた流線型の影が太陽に炙られる大通りをさっと横切っていった。かつて占領軍が使っていたものをルドノア軍が買い取ったのだろう、旧式の無人偵察機だった。二人は路地を出て、ルドノアの日差しと人混みの中に紛れ込んだ。

 二週間前の夜更け、ノア族過激派の幹部としてルノ族虐殺への関与が疑われながらも証拠不十分で追求を逃れていたさる元大尉が、自宅ちかくで銃撃を受けて殺された。その捜査でルドノア警察の監視下に置かれた容疑者の一人に、とある少年がいた。その少年が捜査線上に浮かんだのはあいまいな目撃情報がきっかけだったが、明らかに高度な訓練を受けていることが分かるほど銃器の扱いに習熟していたのだ。一方大尉の銃撃に前後して、東南アジアの教会支部と密接な協力関係にある諜報機関が、『子どもたち』のメンバーリストに一人の少年を追加した。その少年が現れるところで『子どもたち』の推定される収入の十パーセントにせまるカネが動いており、つまりその少年は幹部かそれに近い存在に違いなかった。
 実はこの二人の少年は同一人物だったのだが、数日後に教会の情報部がこれに気付いて慌ててルドノア警察に照会したときには、国境周辺の戦闘の増加と警備の増強が始まっており、少年は監視がゆるんだ隙に姿をくらませていた。
 その後の教会のなりふり構わない圧力が功を奏したのか、少年を再び捕捉できたのが三日前のことだった。さらなる収賄か脅迫か、よりあからさまで強硬な手段を駆使し、教会はルドノア警察に『しばらくその少年は泳がせる』という合意を取り付けた。教会は『子どもたち』の実態をほとんど掴んでいない。少年を利用して『子どもたち』の他のメンバーを釣り上げる――それが教会の実行可能な唯一の作戦だった。

 『子どもたち』の幹部と目される少年は今日、この国の言葉で「夜明けの紫月」という名のレストランで開かれる、実業家たちの集会に現れる。それが教会の掴んだ情報だった。情報通りなら少年はもうそのレストランにいるはずだ。先回りして少年が店に入るところからマークするのが元の計画だが、最大の目的は帰りの尾行だった。教会側、シーナたちが『子どもたち』について知っていることはあまりに少なすぎるが、少年と彼の行き先は突破口――ワーグへ繋がる道になりうる。
 そのレストランは、大通りから一つ外れた、多少寂れた通りの角にあった。この街の多くの建物と同じくレンガ造りで、窓は少ない。ちらりと中をうかがったが、案の定集会の参加者たちは外から見えるようなところにはいない。当然の警戒だろう。使い魔を店内に放てば少年がそこにいるのか、中の状況がどうなっているのか、会話の詳細も分かるが、そういうわけにはいかなかった。ワーグたちはカンダート伯爵を魔術で倒した。それほど魔術に造詣のある連中なら、こちらの使い魔に気付く可能性がある。そうなれば少年は尾行を警戒して『子どもたち』に繋がる場所を避けるだろう。それは絶対に避けなければいけなかった。
 周囲は人通りが少ないうえ、何時間も身を隠して待ちぶせできるような死角はない。どこか離れた場所から見張る必要があった。索敵と隠密行動に特化した使い魔を店を監視できるぎりぎりまで離れた位置に放ち、二人は一旦その場を離れた。

「だいじょうぶ?」
 カリンがシーナの顔を覗き込んでいた。考え込んでいるうちに顔色が悪くなったのかもしれない。
 二人はレストランから一ブロック離れ、寂れた喫茶店で待機していた。
 問題ありません、と答えてかぶりをふる。気を引き締める必要があった。
「ここに戻ってくるのは、やっぱり辛い?」
「そんなことありませんよ」
 いつわるところのない正直な気持ちだった。十三年ぶりにこの国に戻り、確実にこちらに逆襲できる相手との戦闘が刻一刻と近づいている状況でも、シーナは自分が思ったよりずっと平静を保てていた。その代わり、普段と変わらないーー今日までの十三年間と変わらないような後ろ暗さを抱えていた。
『わたしにも行く理由があるんです』
 旅立つ前、シーナはカリンにそう言った。しかし、その中身のことは今日まで一言として触れていない。
 ワーグを止めなければ、自分はいつまでもあの虐殺の記憶から逃れられないーーなぜなら、伯爵の殺害犯にして『子どもたち』のリーダーであるワーグは自分のかつての友人であり、忘れがたい負い目があるからだーーそう説明しようとしながら、シーナは踏み切ることができなかった。十三年前のこととはいえ、姫の仇との関係を明かすのが恐かったからだ。
 自分が今のワーグについて知っていることはほとんどない。それにワーグとの関係はマリアは知っているから、カリンは彼女から報告を受けているかもしれない。だから、今自分がカリンに自分の動機を告白することに戦術的な価値はなにもない。そう思いながらも、シーナはワーグとのことをカリンに隠しているのが後ろめたくてたまらなかった。
 しかし、迷っているうちに二人は敵地深くまで来てしまった。少年の尾行に入れば、いつ戦闘になってもおかしくない。シーナは焦らずにはいられなかった。きっともう、残された時間はわずかなのだ。

「このあたりはざっと十年は戦闘もないですし、わたしにとってはアメリカではないというだけの国です」
「そう」
 カリンのあいづちは、納得したようにも疑っているようにも聞こえなかった。
 カリンは、今まで一度としてシーナの言う『理由』を詳しく聞こうとはしなかった。もちろん、シーナに興味がないから、ということではないだろう。その心遣いは嬉しかったが、いっそのことずけずけと聞いてくれればいいのに、と考えてしまう。
「姫は、なぜ……」
 気付いたらそう口に出していて、シーナは血の気が引いた。全身からいやな汗が吹き出した気がした。
 店の奥から不機嫌そうな店員が現れると、客が帰って何時間もそのままにしていたようなテーブルの一つから皿とコップを下げ、また店の奥へと戻っていった。そのがちゃがちゃとうるさい片付けの音が消えると、客の少ないカフェはおどろくほど静かだった。
「わたしは、伯爵に救われて、姫に出会って、別の人間になれました」
 耐えられなくなってシーナは口を開いた。
「ここには大きな貸しがあります。今なら、それを取り立てられるんです」
『そう思います』だとか『きっと』だとか、気弱なことを付け足しそうになるのを我慢する。強気を装ってまくしたてたが、一度口を閉じるとまた後悔の波に飲まれそうだった。
「強いね」
 ぽつりとカリンがつぶやいた。
「自分のあゆみを信じてるのね。日々の祈り、魔術技師としての研鑽……」
「そんな。魔術の研鑽は、姫こそ積まれているではないですか。姫はこれまで多くの敵を斃してこられました。それを果たしたご自身の魔術のことは、信じておられるのではないのですか?」
 返事はない。カリンはただ困ったように微笑んでいた。しかし、戸惑っているのはシーナも同じだった。積み上がる敵の死体。己の魔術。後悔を抱えていると、自分が信じてもいないことばかり口にしてしまいそうだった。
「姫……」
「実はわたし、この国に来たことがあるの。子どものころに。小さいころに」
「え」
 カリンがこれほどはっきりと過去の話をするのは、シーナが覚えているかぎり、これが初めてのことだった。
「この国の人たちや街のことは覚えてないんだけど、一つだけ、はっきりと覚えてるの。まぶしいくらいの星空。大きな流れ星……」
 カリンは夢見るように目を閉じた。その表情は、なぜなのか、シーナがいつも想っていた横顔とは違っているように感じた。
「綺麗すぎて目が回りそう。そんな夜空だった。きっとあれが、わたしの人生でいちばんの風景」 
 カリンは小声で歌い出した。古い映画の歌。シーナも知っている曲だった。『星に願えば』。
『星に願いをかけるとき、誰だって、心をこめてのぞむなら、きっと願いは叶うでしょう』
 つぶやくようなその歌声に耳を澄ませて目を閉じると、シーナの脳裏にも子どもの頃のーールドノアにいた頃の夜空が浮かんだ。アメリカに来てからシーナが住んだのは都市部ばかりだったが、あの頃は周囲に灯りが少なくて、夜の空はいつも数え切れないほどの星々でいっぱいだった。
 草が風に揺れて触れあう音に混じってワーグが歌っていた。ただ元気なだけのその歌声を、シーナは今このときと同じように、目を閉じて聴いていた。
 シーナは知っている歌すべてを教えたが、ワーグが一番気に入ったのは最初に教えたきらきら星だったーー。
 歌が途切れた。石英の瞳が、テーブルに置いた自分の手、シーナの背後、上方にある店の天井かなにか、もう一度テーブルの上、と視線をさまよわせる。
カップに触れた指がその表面をなで、力がこもり、ぬけた。そのどうということのない仕草のひとつひとつに、シーナは危うさを感じて目を離せなかった。
 カリンがようやく口をひらいた。絞り出すような声だった。
「わたし、シーナに言わないといけないことがあるの」
 いやだ、聞きたくないーーさっきまで余計なことばかり言っていた口が、ふるえて動かなかった。
 そのとき、「夜明けの紫月」を見張らせていた使い魔が目標――『子どもたち』の少年が店を出たのを捉えた。カリンもシーナの様子ですぐ気付いた。
「行きましょう」
 シーナは立ち上がった。これ以上混みいった話をしたくなくて、緊張が伝染して足が震えるのも、ワーグのことを話す機会を逃したことも気にならなかった。

 二人は大通りを少し歩いたところで少年に追いついた。十メートルほど距離を空け、間に通行人を十分挟んで尾行する。
 背の高い、手足の骨だけが先に発達して他の骨格や筋肉の成長を待っているような、はっきりと成長の途上にある少年だった。出発前に写真を見たときは間もなく成人になる程度の歳だという印象だったが、もっとずっと若い。多めに見積もっても十六歳か、とシーナはあたりをつけた。
 一台のピックアップトラックが向かい側から走ってきて、少年の傍で止まった。シーナは顔をしかめた。車は用意していない。もし少年が車に乗ったら、その時点で使い魔での追跡に切り替えざるをえなかった。
 ドライバーの青年が窓から顔を出すと、彼が口を開く前に、先んじて少年の方が一言二言話しかけた。なにを聞いたのか、ドライバーはすぐにトラックを出すとターンして元の道を戻っていく。少年はまだ徒歩で移動するようだ。シーナはそっと胸をなでおろした。
 少年は、どこか目的地へ迷いなく歩いていた。首都の密集地からはどんどん離れていく。人通りも少なくなって尾行が目立ちつつあったが、道のわきの建物はまばらにならず、途切れず続いているのが幸いだった。
 周りの建物は、テナントが入るわけでも人が住んでいるわけでもなく、ただ放棄されているようだった。建物の痛みは荒れるに任せた結果かと思ったが、進むうちにそうではないことに気付いた。小銃のものから迫撃砲で吹き飛ばされたものまで、大小さまざまな弾痕がそこら中の壁面に刻まれていた。大規模な市街地戦の痕跡だった。
「大通りから少し離れたらこれか……」
 シーナは思わず声を漏らした。カリンは無言だが、彼女にも思うところがあるのか、 レンガの塀のなれの果てをじっと見つめていた。
 なにか大きな部屋の一部だけ残ったような、二つの壁でできた角があった。その壁一面に、小銃の弾痕が無数に集中していた。シーナはそこに立たされ銃口を向けられた人々を幻視して、思わず目をそむけた。視線を落とした先の地面に、縦長に掘り返された跡があるような気がした。穴を掘るように、そこに横たわるように、銃を突きつけられる、人々の姿。掘り返され、埋められた跡が、ここにも、そこにも、一つや二つでなく、あたり一帯がそのような場所であるように思え――。
 風景にシーナたちの足取りが危うくなっても、少年の歩みは少しも乱れなかった。ただ少年に置いていかれないよう、周りの風景を意識しないよう努めて歩き続けて十分か二十分か、しばらく経ったとき、ひときわ大きい建物が現れた。
 損傷がひどく、崩壊した壁から中の階段が見える。一階一階の天井が高く、もとは豪奢な建物のようだった。だが壁の一面も残さず戦闘の跡が刻まれていて、この周辺でも屈指の激戦地だったことがありありと伝わってくる。それでシーナはぴんときた。ここは、何らかの勢力の拠点だったのだ。
 シーナもカリンも思わず足を止めてしまったが、少年との距離は思ったほど離れなかった。きもち足を早めて少年のあとを追いかけようとして、かつては建物高くに掲げられていたであろう、大きな看板が地面に落ちているのが見えた。シーナは、あちこち焼け焦げて土に汚れたその文字をなんとか読んだ。ルドノア人民放送。
 首都周辺で大規模な戦闘が起きたのは、十年前が最後のはずだ。だからこの痕跡はその十年前のもので間違いない。ということは、このあたりは十年間、まったく再開発の手が入らなかったということになる。それだけ忌み嫌われた土地になってしまったということだろうか。戦争の生々しい記憶を上書きするのでなく、ただ空白の領域としてアクセスすることを放棄する――記憶のシステムの健全性はそれで回復できる。だが、それはこの国か、あるいはこの街としての挙動だ。その構成要素である一人一人の人間が放棄と忘却を選択する――選択できるとは限らない。
 街に刻まれた戦闘の爪あとは変わらず続いていたが、人の気配、生活の痕跡がわずかに感じられた。ふと視線を感じて振り向くと、人影が瓦礫の陰に隠れるのがちらりと見えた。無人地帯を越えたのだ。一度彼らの存在を認識すると、その視線と気配は先へ進むほど濃くなっていく。息をひそめ、街が存在ごと忘れようとする区域に隠れ住む人々――ここをスラムと呼んでいいのか、シーナには分からなかった。
 気付いたときには、あたりの人通りはすっかりなくなっていた。もうこちらの存在を欺瞞する手段はない。少年がこちらの存在に気付いたなら、『子どもたち』につながる場所へは近づかないだろう。尾行は失敗だ――シーナがそれを認めようとしたとき、また大きな建物が姿を現した。
(これは……モスク、礼拝堂か?)
 この周辺のものより明らかに新しい建物だった。戦争の後に建てられたものだろう。先ほど見たルドノア人民放送の社屋と同じくらいの高さ、同じくらいの広さに見える。あちこちに施された装飾は華美というほどではないが、手がかかっているのはひと目で見て取れた。しかし、ここにも戦闘の痕跡が刻まれていた。正門のあたりの柱や壁に銃痕が刻まれているが、損傷は大きくない。ここでの戦闘は小規模なものだったようだ。
(終戦後にもここでは戦闘があった、ということ?)
 十年前に戦争が集結してからは、首都周辺で戦闘はほとんど起きていないはずだ。記録に残っているのは、すべて終戦から一年以内のものだった。これほどの礼拝堂ができたのは終戦から一年以上あとのことだろうから、ここで起きた戦闘は記録に残っていないのかもしれない。
 少年が、わずかな迷いも見せずに礼拝堂の中に入っていった。彼の本来のものなのか、あるいはシーナたちに情報を漏らさないための偽装なのかは分からないが、彼の目的地がここだったのははっきりした。今、少年を追って礼拝堂の中に入るか。この場はいったん引き返すか。あるいは使い魔だけ放って中の様子を窺うか。選択肢はいくつかあった。しかしシーナは、それより少年の行動にひっかかるものを感じた。
(まるで誘われた――いや)
「案内された、ということかしらね」
 同じ予想にいたったカリンの言葉に、シーナは頷いた。少年から尾行に気付いて行き先を変えたような素振りはまったく感じられなかった。だからこの場所が見られるのは構わない――それどころか、自分を尾行している者にここを見せたい、という意図まで感じられた。もちろんそれは、少年がシーナたちの尾行に気付いているとしたら、という仮定の上での推測だ。だがもしこの推測が正しいのなら、彼は自分たちがここに至るまでの道、その風景すらも見せたかった、ということも考えられる。だが、なんのために? シーナは、背筋にぞわりと走るものを感じた。
 危険を想像し、他の手段を検討しながらも、二人は誘われるまま少年のあとを追った。

 正門から中庭、エントランスから建物の中まで扉は全て壊されていて、二人は周囲の物を何一つ触れることなく少年を追いかけることができた。もう疑う余地はなかった。少年は紛れもなく、二人を誘導している。
 シーナは少年のあとを追いながら建物を観察した。どこか既視感があると思ったが、すぐに気付いた。大聖堂だ。大聖堂はもともと人間の信仰を利用するために既存の宗教文化を意図的に取り込んでいる。だから大聖堂が宗教施設に似るのは当然だ。シーナは自分にそう言いきかせながら、しかしここが大聖堂であることをなかば確信していた。ある部屋の前を通ったとき、その裏付けがえられた。
 その部屋は他の部屋と異なり、カードキーと生体認証の組み合わせでロックされていた。ドアは他のものと同じく破壊されていたが、元は厳重に警備された特別な部屋だったようだ。中を覗いて、その理由が分かった。
 そこは『雨の神』とほとんど同一仕様の、大聖堂の制御室だった。設置された機材にはどれも入念に銃弾を撃ちこまれ破壊されているが、合唱団員のバイタルサインを観察する装置、ホールに流し込むガスの制御盤、魔力発生の状態のモニタ機材、どれも『雨の神』と同じベンダーの製品だ。建物自体の外観、施された装飾だけを見れば教会の貴族たちが保有する大聖堂とは似ていないが、異なる文化が異なるディテールを要請しているだけで、機能と本質は同じということだ。

 シーナは戦慄に身体が震えるのを感じた。大聖堂は、その全てが教会――信仰委員会の管理下になければならない。それが今の世界の秩序だ。この施設はその機能において紛れもない大聖堂でありながら、自分は建設されていたことすら知らなかった。教会の大聖堂研究の頂点である礼拝技術部に所属し、主流派ではないにしてもある程度の地位にいる自分ですら、だ。教会が既定路線で大聖堂の研究・建設をおこなうなら、礼拝技術部が一切関与しない、シーナが噂にも聞かない、という事態は考えづらい。そうなれば、考えられるのは二つだ。教会が礼拝技術部を通さず秘密裏に大聖堂の研究・建設をしているのか、教会以外の組織が教会のものに準じる大聖堂を作ることができたか、だ。いずれにせよ、この施設はシーナの思う『世界の秩序』を根底から揺るがす存在だった。
 だが、そもそもそんな秩序は、伯爵が殺されたときに崩壊しているのだ。

 混乱した思考のまま、少年を追いかけて奥へ奥へ進む。ここが自分の知らない大聖堂であること、それを何者か――おそらくは『子どもたち』――が襲撃し破壊したことはおそらく間違いない。それをなんとか飲み込むと、シーナは先ほど見た制御室に不可解な点があったことに気付いた。ここを一つの大聖堂――巨大な魔力発生装置として魔術技師の目で見ると、制御室の機材はバランスが悪いのだ。モニタ装置から推測すると、ここは『雨の神』に匹敵する大魔力を発生できる。しかし、制御盤で流入できるガス量は『雨の神』よりずっと少ない。発生魔力からすると、合唱団に相当する人間を集めるホールも『雨の神』に近い大きさだろう。だからそのホールに流し込むガスも、相応の流量が必要になるはずだった。しかし実際は、『雨の神』の百分の一程度の流量なのだ。
 大聖堂は現在の魔力発生技術の最先端であり、その設計と建造にはこの分野に精通した魔術技師たちの参加が不可欠だ。だから例えバランスが悪いように感じようが、そのバランスはここを作った魔術技師たちの意図があるはず――シーナはそう考えた。ホールの構造か誘導用ガスの組成か、とにかく何かが『雨の神』のような現行の教会の大聖堂とは決定的に違うのだ。それこそがきっと、ここで行われていた研究の核心だ。

「ここは……?」
 広い部屋に出て、シーナは思わずそうつぶやいた。壁はコンクリートむき出し。床は排水口のように格子状に穴の空いた金属製。さらに、幅四メートル、高さ二メートルほどで奥行きは二十メートルもあろうかという大きな金属製の棚のようなものが、整然と並んで部屋全体を埋め尽くしている。これまで見た他の部屋とはまったく様子が違っていた。
「気をつけて」
 カリンが静かな声で告げた。いつの間にか少年の姿が見えなくなっていた。この部屋は大きな金属の棚のせいでいたるところに死角がある。なにか仕掛けてくるかもしれない。カリンは索敵用の使い魔を放ち、臨戦態勢に入った。シーナはカリンの背後をカバーしながら、しかし少年にそんな意図はないと確信していた。彼はわたしたちに、ここを見せようとしていたのだ。
 シーナはカリンの後ろについて、棚と棚の間をじりじりと進んだ。棚はちょうど人一人が横になって寝られるくらいの大きさの、奥行きの長い小部屋に細かく仕切られていた。棚の中は見るかぎりすべて空だったが、小部屋の一つ一つに小さなモニタがついていて、規格品として作られたもののようだ。大量のものを保管し、その出し入れを管理する――つまり、倉庫か。シーナはしかし、その推測にたどり着く前に直感的に連想したものがあった。蜂の巣。船室。監獄。あるいは、ブロイラーのケージ。
 シーナは自分のおぞましい予感を振り払おうとしながら、目ではその証拠を探し、すぐにそれを見つけてしまった。
「姫、見てください」
 シーナの指さす先を見て、カリンは絶句した。手枷か足枷か、金属製の拘束具が小部屋の中に落ちていた。拘束具からは鎖が伸び、小部屋の壁に繋がっている。拘束具と鎖はところどころ赤茶けているが、それが本当に錆なのかどうかは見ただけでは分からなかった。
「――この中に人間が繋がれていた、ということ?」
 シーナは頷いた。声が出なかった。
 これがこの大聖堂で行われていた実験の核心だろう。『雨の神』でいうところの聴衆を、この棚――ケージに入れて管理する。前近代的な部分の多いルドノア刑務所も、ここまでひどいところではないはずだ。どうやって人を集めていたのかは分からないが、これがルドノアの国内法に適うとは思えない。
 シーナは、『雨の神』のリーダーの少女を思い出した。想像の中で、シーナは彼女を抱きしめながら、背中ではその腕に拘束具をかけていた。

 だが、人間の信仰による魔力発生、それを大規模化・効率化した大聖堂の行き着く先が今目の前にあるような形になるのは、一つの必然だった。現状の構造では、『雨の神』の規模からさらに出力を上げるためにより多くの人間を使おうとしても、『神の御姿』の共有・維持が難しくなる。だから、収容する人間に対して外部からより強い手段で精神活動の深いところまで干渉する必要があるのだ。それがどの程度のものかはまだ検討段階だが、通常の身体活動ができるレベルでは難しいだろう、というのが現在の見通しだった。昏睡状態に近い人間を大量に管理する――そのための施設は、誰が、どんな組織が作ろうと、おそらくここに近い形になるだろう。
 しかし、現実には教会が――いや、礼拝技術部がそんな『次世代型大聖堂』を作ることはありえない。ここから先は法律的にも倫理的にも許されることではない、という一線を引いているからだ。そうシーナは考えた。
 それなら、ここを作ったものたちは、その一線の向こう側にいる――。
「ここは一体……」
「『プラント』――それがここの通称だよ」
 カリンが漏らしたつぶやきに、すぐ近くから答えがあった。少年が、棚の陰からゆっくりと姿を現した。
「よく見てくれ。『プラント』はカンダート伯爵の最大の遺産だからね」

 目を逸らしたカリンを見て、シーナは少年を睨みつけた。少年はシーナの視線を軽く笑って受け流した。
「どういう意味?」
「魔力の生産場。言葉通りだよ。非効率と冗長さと感傷を排除した、より完全な大聖堂。カンダート伯爵は、君たちの一歩先を歩いていたのさ」
 非効率と冗長さと感傷。穏やかに笑みを浮かべつつもそう言い切った少年の言葉には、しかし抑えきれない怒りと憎悪が滲んでいた。
「ルドノアは今も昔もカンダート伯爵の庭みたいなものだ。人身売買だろうが人体実験だろうが、庭の人間を使い、庭の中で外に漏れないようにやるかぎり、誰も気にはしない。それが君たちの倫理だ」
 かっとなって「そんなことはない」と言い返しそうになるのをこらえる。
「伯爵は、この国で虐殺が起きたとき、力を尽くして止めようとした。教会の植民地主義が気に入らないのは理解できるけれど、伯爵を恨むのはお門違いよ」
「ああ……あんた、シーナ=トーネルは殺されかかったところをカンダート伯爵に救われたんだったな」
 なんてことのない世間話のように言った少年に、シーナは総毛立った。カリンは教会の処刑者だから知られているのは当然だが、シーナは専門分野では名が知られていても、一介の魔術技師にすぎない。シーナを知っているということは、少年たちは本気で大聖堂を研究しているのだ。
「証拠ならこの先の執務室にある。伯爵を示す書類はいくらでもある」
 動揺するシーナをよそに、ついてこいよ、と少年は涼しい顔で続けた。直接こちらに危害を加える気があるようには見えず、シーナたちは距離を置いて少年の後ろを歩いた。
「考えてもみろよ。そもそも、伯爵以外の誰にこんなことができる?」
 少年の言葉に、シーナもカリンも答えることができなかった。
 棚の間を奥へ奥へと進むと、棚の列が途切れ、壁と扉が現れた。部屋の端に着いたのだ。
「そこだ」
 少年が視線とあごで扉を示した。シーナが震える足で前へ踏みだそうとすると、前触れもなく扉が開いた。
「もうおいででしたか」
 少年が扉の奥へ声をかけた。身構えるシーナたちの前に、複雑な刺繍の入ったローブ姿の人影が現れた。シーナの身体を大きな震えが走った。そのローブは、『子どもたち』の犯行声明でワーグが着ていたものだった。
「ワーグ……なの?」
 ローブの影が顔を覆っていた布に手をかけた。

 その瞬間、背後から放たれた魔力の矢の一群がシーナたちを襲った。シーナとカリン、ローブの影に迫った矢は、魔術道具に仕込んだ防壁が瞬時に展開し、受け止められた。しかしそれを漏れた矢の何本かは少年の近くに着弾し、その衝撃で少年は吹き飛ばされた。
「なに!?」
 振り返った先には、よく見知ったシルエットが部屋の電灯の逆光に浮かんでいた。細く長い手足に、鼻梁と頬、あごを形づくる鋭い輪郭。
「ひ、姫……?」
 カリンと全く同じ顔、姿の誰かが、棚の通路の向こうに立っていた。
 攻撃を受けたカリン――シーナと今までともに歩いてきた方のカリンの反応は素早かった。距離を詰めつつ指輪の一つに仕込んだ魔術を展開、魔力を圧縮した弾丸を生成し、襲撃者へ撃ちこむ。シンプルだが即応性の高い、強力な魔術だ。威力も先ほどの襲撃者の魔術に負けていない。しかし、襲撃者の防壁はその弾丸をあっけなく受け止めてしまった。カリンは舌打ちし、棚の間に飛び込んだ。その瞬間、襲撃者のより強烈な一撃がカリンが一瞬前までいたところを穿つ。初撃とは明らかに出力の違う、防壁ごと力ずくで相手を貫く一撃だった。
 高出力魔術の容赦のない応酬。シーナは圧倒されて身動きできなかったが、襲撃者もカリンを追いかけて並んだ棚の奥に姿を消したのを見て、少し落ち着きを取り戻した。襲撃者の魔術は複雑なものではないが、威力はすさまじい。莫大な魔力供給を受けていると考えるのが自然だった。つまり、襲撃者の背後には大聖堂がある。それもおそらく、複数の。
 整然と並んだ棚の向こうで見えないが、断続的に炸裂音や金属がひしゃげる音が響き、戦闘の激しさが伝わってくる。シーナは襲撃者の姿を思い出した。奴は、カリンと寸分違わぬ姿をしていた。考えられる答えは、もちろん義体だ。だとすれば、何者かがシーナの作ったカリンの義体を盗み出し、その義体と大聖堂を駆使して『子どもたち』の少年とシーナたちを襲った、ということになる。ごくり、とシーナの喉が無意識のうちに動いた。戦闘の最中だというのに、事態の深刻さに気が遠くなりそうだった。
 それでシーナは、戦闘の余波で吹き飛ばされた棚の一つが自分に向かって飛来してくるのに気付くことができなかった。

 ローブの影が視界の端で動いたかと思うと、シーナは思い切り突き飛ばされていた。シーナが地面に倒れこむより早く、弾丸のような速度で飛んできた鉄の棚が防壁を軽く破壊してローブの中の身体を一瞬で押しつぶし、部屋の壁に激突して耳障りな音を立てた。
 シーナはかぶりを振って起きあがった。ぐしゃぐしゃに潰れた棚の近くで、ローブを血まみれにした誰かが事切れていた。顔を隠していた布がすべり落ち、その下の顔が見えた。ワーグとは似ても似つかない青年だった。
「なぜ、わたしを助けた……?」
 ローブの青年は、間違いなく『子どもたち』のメンバーだった。なのに、どんな理由で教会の手先である自分を助けるのか。一言として言葉を交わす間もなく、彼はシーナを助けて死んでしまった。状況と展開が自分のキャパシティを超えている。シーナはただ呆然とするしかなかった。
 異臭とともにどこからか黒い煙が立ち込めてきた。額に汗の粒が浮いていて、全身の皮膚がヒリヒリとする。事態に気がつくまで、数秒かかった。襲撃者が火を付けたのだ。ここにあるものを葬るために。
 姫のそばへ行こうとしたが、足に力が入らなくて膝をついた。気配を感じて顔を上げると、姫と同じ顔の、しかし表情はまるで違う義体がシーナを見下ろしていた。ドレスは青白いエーテル液で汚れているが、その義体に損傷はない。姫の返り血だと気付いた瞬間、シーナの疲弊し混沌とした思考の中から、かすかに強い感情が生まれた。
「お前は誰だ……」
 襲撃者の操る義体はただの等身大の人形のようで、姫と同じ顔をしていてもその表情からは何の感情も読み取れなかった。
「目的はなんだ……」
 だが、人形――義体の本質は表情にはない。襲撃者は姫のような表情の操作をしないが、複数の大聖堂の力を奮うことができる。今では大聖堂への接続を制限されている姫より、この襲撃者のほうがより『姫』らしい――『傷つかない処刑者』らしいのではないか。
「姫の姿を騙るな!」
 シーナの叫びに、襲撃者はみじんも揺るがない。
「逃げて、シーナ……!」
 襲撃者の向こうに、ぼろぼろの棚によりかかったカリンが見えた。左足は大きくねじれ、左手はもぎ取られて義体内部の機構がむき出しになっていた。
 襲撃者ーー姫の義体を操っているのは、教会の人間以外ありえない。義体を盗み出すのも複数の大聖堂への接続を許可するのも、可能なのは教会内部の、それも権限の大きな人間だけだ。たとえば、信仰委員会のような。
 そして、伯爵が殺されて扱いかねる姫に、この理不尽な死の旅を科したのも信仰委員会だ。彼らが姫に与えた、父の仇を討て、ワーグを殺せという罰に、いっさいの正当性はない。ただ姫の死が求められているだけだ。だから、もし事情が変わって姫の存在が本当に許容できなくなれば、彼らはより直接的な手段を取るかもしれないーー。
 襲撃者を見上げた。これが彼らの答えなのだろうか。教会が、信仰委員会が欲しているのは、強力だが取り替えのきく、自分たちの力の象徴だ。力の象徴に表情はいらない。意思もいらない。彼らは、そういう『なにか』を彼ら自身の一部として、彼らの権力と自意識を拡張する一種の器官として得たいのだ。
 逃げる力はどこにもなかった。襲撃者がシーナに向けてかざした手に、大聖堂から供給された魔力が集中していく。姫に深手を負わせるほどの出力では、シーナは一撃も耐えられない。放たれれば間違いなく致命傷になる魔力の光を前にシーナは動けず、しかし教会の傲慢さに屈したくなくて、膝をついたまま襲撃者を睨みつけた。

 そのときだった。自動小銃の点射が襲撃者に浴びせられ、反応した防壁が銃弾を受け止めた。射手を探して振り返った襲撃者に、また別の方向から銃撃が加えられる。
 よく統制された部隊による攻撃だった。棚を遮蔽物に、恐らくは三方向からアサルトライフルで大口径の高速弾が切れ目なく浴びせられている。直撃弾はないが、襲撃者は強力な弾幕を凌ぐために防壁に集中していた。攻撃に回せる魔力は相当限られるはずだ。相手の動きを止め、攻撃に回す魔力を封じる銃撃。この部隊は、魔術師との戦闘に精通している――。しかし、そんなものが存在し目の前にいるということの意味を、今のシーナは理解することができない。
「燃えろ」
 絶え間ない銃声の中にあって、シーナには不思議とその声が聞こえた。フードを目深にかぶったローブの影――シーナを守って死んだ青年と同じものだ――が棚の奥から飛び出し、完全に足の止まった襲撃者に魔術を投射した。運動エネルギー弾の防御に特化しすぎた防壁の向こうで、姫と同じ姿をしたモノが激しい炎に包まれた。銃弾とはまったく異なる形質の攻撃に、襲撃者の対応が遅れている。
 床を跳ねる甲高い音とともに、なにか大きなボルトのようなものがシーナと襲撃者の前に転がってきた。正体を見極めようと自然と目で追った次の瞬間、爆音と閃光が炸裂した。スタングレネード。なにが起きたのか認識する間もなく、シーナの意識は沈んでいった。
 襲撃者が炎を無効化して反撃に転じる前にこの場を撤退しようと、ローブの影が部隊にすばやく指示を出す。しんがりが足止めに放った射撃のマズルフラッシュが、ローブの影がかぶったフードの奥を照らしだした。薄れゆく意識の中でシーナはその顔を見た。ワーグ=リフェルド。
「待って!」
 燃え落ちつつある聖堂に、カリンの叫びがひびいた。その声に胸を引き裂かれそうになりながらも、シーナは抗えず、完全に意識を失った。
 シーナたちの探していた『ルドノアの子どもたち』のリーダー、伯爵を殺した犯人であるワーグその人が、倒れたシーナを抱きかかえ、部隊を率いて戦場を離脱した。

JNコンフィデンシャル 1/14

第一章 Slit Your Guts

1[小立 俊弘]

 水が口から鼻から入ってくる。息ができない。顔を上げられない。生暖かい手に首の後ろを押さえつけられ、おれはバスタブの冷たい水の中でもがいていた。

 水の中から引っ張り出され、咳きこみながらやめてくれ、といいかけたところでまたバスタブに沈められた。何が起こっているのか、なぜこんな目に遭っているのか分からなかった。窒息の恐怖が自分の貧相な身体から全力を引き出していたが、それでも縛られた両手のテープは引きちぎれないし、自由な両足もバスタブをめちゃくちゃに叩くだけだった。無理な運動が空気を浪費し、苦痛の中で意識が遠くなる。

 引き上げられ、数秒のあいだ呼吸を許されたかと思うと、また沈められる。それが三度か四度。それからやっと襲撃者は口を開いた。

「焼肉屋。食事券。全部話せ」

 なんのことだ、と聞き返そうとしてまた沈められた。焼肉屋。食事券。襲撃者の言葉から記憶を探ろうとするが、恐怖と混乱で頭が回らない。ただもう苦しいこと、痛いことは許して欲しかった。

 おれが暴れる気力をなくしたのに満足したのか、襲撃者はおれをバスタブから引き上げて浴室の床に仰向けで転がした。それで初めて襲撃者の姿が見えた。黒っぽいジャージにパーカー、目出し帽の男。そいつは身体をよじって水をはき出そうとするおれの胸をスニーカーで踏みつけながら、パーカーのポケットから紙を取り出して見せた。

ウィークリィ音雨 橙川遥と■■■■が熱愛交際!

2011-10-06 22:06:01

橙川遥(21)と■■■■■■3)、人気声優同士の熱愛交際が発覚した。

初のソロライブツアーの最■■■■公演を終えた橙川遥。

奇しくも同じ日の■■■■(日)、同じく横浜公演を終えた■■■■。

共に横浜でのライブを行った翌■■■の焼肉店には2人の姿があった。

この日■■■■■■■■■■とは、翌日の橙川のブログに載っている。

 

別の日には、都内の某■■■■■■2人で訪れる姿も見られた。

別の日の夜には、橙川の自宅マンシ■■■■■■で仲睦まじく帰宅する様子もあった。

■■は橙川の自宅マンションを頻繁に訪れているほか、6月には橙川が■■■■■■■■台をプライベートで観劇する様子も見られた。……

「これの話だ。全部話せ」

 そのプリントアウトを一目見て、例のブログの記事だと分かった。『ウィークリィ音雨』。それでさっきの質問と自分の記憶が急速に繋がりだす。水で冷えた身体の震えが酷くなった。

「おれのせいじゃない」

 なんとか絞り出した声が、ぶざまに震えていた。

「おれは関係ない。知らないんだ。そんなつもりじゃなかった」

 自分の口から次々と言い訳じみた言葉が出てくるが、どれも紛れもない事実だった。なにか助けてくれるものを探して視線を巡らせたが、いつもの狭苦しいワンルームの浴室にはなにもなかった。沈黙が恐くなって盗み見た目出し帽の奥の瞳が、風呂場の床に転がされてがたがた震えるおれを冷たく見下していた。

「全部話せ。お前がしたこと。お前が知っていることを」

 抵抗する気力などなかった。深呼吸し、思考を整理する。自分の後悔に、苦い、痛い記憶に向きあう覚悟をする。そしておれは、回想の暗い穴を下りていった。

 

「オービットSpheric Universe Experimentツアー横浜、おつかれっしたー! 乾杯!」

 グラスを打ち合い、ぐいっとビールを呷る。横浜公演終了後、俺と友人――サークルの後輩――はライブ会場近くの飲み屋で恒例の宴会を開いていた。

「新曲! よかった!」

「MCの遥と美菜子、いちゃいちゃしすぎだろ。普段からあんなんじゃねーの!?」

「楽屋で二人きりだったら……ほら! 緊張をほぐすわけですよ、お互いに!」

 店はありふれた安居酒屋でも、ライブの余韻が肴となれば最高の宴会だった。だがその日は、ささいなきっかけが具体的な行動を生んでしまった。

「お、生肉ありますよ。食いましょう、生肉」

「生肉! 食べたい!」

「むしろ食わせたい!」

 そのときおれは、一瞬、その欲望を実現させる方法を真剣に考えた。そしてすぐに、それは実現可能である、という結論に至ってしまった。

「そういうときのためのプレゼントボックスだな

「いや、食い物はさすがに無理でしょう」

「じゃあほら、お食事券とか」

「そうか、焼肉屋のお食事券」

「人数はどうしようか」

「四人分だと予定合わせづらいだろうな」

「じゃあ二人分に絞るか」

「二人分……あー、カレシと行ったりして」

 一種、会話に間が空いた。

「ま、遥が肉食えばそれでいいよ。誰と食おうが、まあ俺らの知ったところではない。知れるところじゃない」

「まったくもって。じゃあそれで行きましょう」

 そしておれたちは、オービットの次の公演で食事券をプレゼントボックスに入れた――

 

「食事券はワナだったんだろ」

「ちがう」

 襲撃者の目が怒りをぶつける先を求めていた。

「二人分の食事券でスキャンダルのお膳立てをしたな。相手を誘い出すのが目的だったんだろ」

「ちがう」

「その友人も協力者か。お前が計画し、そいつが尾行して証拠を押さえる。そういう手はずだったんだろ」

 おれを責めながら、襲撃者はおれの胸を踏みつける足に力を込めた。胸が苦しくなって、おれは屠殺場の家畜のようにわめきちらした。

「ちがう。ちがう。ちがう。おれは、遥のファンだ。遥のことが好きなんだ。遥をおとしめたりするはずないだろ!」

「『好き』? どういう意味だ? 所有したいってことか? 支配したいってことか? お前のような人間が口にする「好き」とか「愛」とか、気持ち悪いんだよ。じゃあこういうのはどうだ。お前は愛する遥が、大好きなオービットの誰かと行くことを期待していた。だが実際にその場に現れたのはクソ男だった。お前は裏切られた。ちくしょう、遥は非処女確定だ! それでお前は遥に失望して、中古女に復讐しようとした。……気持ち悪いんだよ、お前」

「ちがう、おれはそんなことしてない。そんなこと思わない。おれは、遥が大事に思う人なら、カレシと行ってもいいと思ったんだ。本当だ」

「なら証明してみせろ!」

 襲撃者がなにか棒状のものを奮っておれの腹に叩きつけた。金属がぶつかり合う音と、重く鈍い衝撃。息が詰まった。

「それに本当だとしても、例えば今お前が留年してても、大学に落ちていても、何百万も借金してても、なにかの病気で死にかけていても、親にぶん殴られながらでも言えるか。『カレシと行ってもいい』だなんて」

 衝撃が激痛に変わりはじめた。もだえるおれを、襲撃者はさらに言葉で打擲した。

「言えないだろうよ。お前はただ運がいいだけだ。運がいいから、そんな達観ぶって偉そうに綺麗事をほざけるんだ。お前は、自分は頭のいかれた処女厨とは違う、そう思ってるんだろ。同じだよ。お前も一皮むけばあのキチガイどもとおんなじなんだ」

 苦痛と情けなさと対象のよく分からない恨みで涙があふれてきた。襲撃者の言っていることはよく飲み込めなかったが、突き刺さっているのは確かだった。それを自覚すると、今度は悔しさがわき上がってきた。これ以上の醜態を晒したくない一心で、漏れそうになった嗚咽を押さえ込んで叫んだ。

「うるさい! お前はどうなんだよ。他人事みたいにいいやがって。それはお前自身についても言えるんじゃないのか」

 覚悟していた罵倒も殴打もなかった。いぶかしんで伺った目出し帽の奥の瞳からは、いつの間にか激情が消えていた。襲撃者はおれから足を降ろすと、少し間を置いて切り出した。

「その通りだ。これはおれがやったわけじゃない。お前が引き金だったわけでもないかもしれない。でも、おれたちのせいなんだよ。おれたちが起こしていることなんだ。こういうことは、おれたちが始末をつけなきゃ」

 思いのほか静かで切実な言葉に虚を突かれ、こらえられなくなって嗚咽が漏れだした。「こんなつもりじゃなかった。おれは、どんな形であれ遥をさらし者になんてしたくなかった」

 おれは泣きながらもう一度訴えていた。

「計画したわけじゃない、そんなつもりじゃなかったとして、お前が遥に屈辱への切符を渡したのは事実だろう。償え。遥が好きだっていうのが薄汚い自己満足じゃないっていうなら、おれに協力しろ。彼女たちを傷つけたやつを見つける。そいつにも償わせる」

 手が差し伸べられた。手の先の襲撃者の瞳に、暴力に屈する自分、脅しに屈する自分、同情を乞う自分が見えた。

 おれはその手を握りかえした。怯えながら。憎みながら。襲撃者を。盗撮者を。自分自身を。

JNコンフィデンシャル 2/14

2 [小立 俊弘]

「はい?」

 暢気な声とともに小綺麗なマンションの一室の扉が開いた。その瞬間、花山がおれの背中から飛び出してその男へブラックジャック――花山がおれを襲ったときにも使った武器で、二重にした靴下にナットをぎっしり詰めている――を振り下ろした。肉を叩く鈍い音とくぐもったうめき声。花山は男を部屋の中へ突き飛ばした。目撃者がいないことを確認しながらおれは二人に続いて部屋に滑り込み、ドアをロックしてチェーンをかけた。

 野暮ったい眼鏡を外し、花山にならって目出し帽を被った。もちろんマンションのカメラには顔を撮られている。だが警察を介入させるつもりはないし、目的は顔を隠すことそのものでなく、尋問相手にプレッシャーを与えるためだ。その効果はつい数日前、おれ自身が体験している。

 ドアの郵便受けを漁る。公共料金の明細。請求書。全て「泉 哲朗」宛。標的の人物で間違いなかった。

 泉は二番目の標的だ、と花山は言っていた。花山の情報源によると、泉は盗撮者となんらかの繋がりがあるらしい。もちろん一番目の標的はおれだ。おれもあの居酒屋に居合わせていた、食事券のことも断片的に聞いていた――花山は悪びれもせずそう言った。

 花山は泉に猿ぐつわをかませて椅子に縛り上げていた。見事な手際だった。泉は脂汗をかいてきょろきょろしながら何事か声を上げようとしていた。花山は無言のまま、二度三度とブラックジャックを泉の背中に、胸に叩きつけた。そのたびに泉は猿ぐつわの下で叫び、唾を垂らしながら唯一自由のきく頭だけで激しく暴れた。

「泉哲朗だな」

 泉が暴れ疲れたのを見計らって、花山が切り出した。

「警察には話すな。話したら、お前の本名、住所、大学名その他もろもろをν速とゲハと鬼女とロブ速に晒す。今までさんざんお前が馬鹿にしてきたやつら全員をお前とお前の大学、お前の親族のところに招待してやる。それが嫌なら質問に答えろ」

 泉は目を見開いた。なにかと心当たりがあるのだろう。おれ自身も自分の手で泉を痛めつけ、破滅させたいという誘惑を感じていた。

「この記事のことだ。情報源を吐け」

 花山がおれにやったときと同じように、プリントアウトを泉に突きつけていた。おれは暴力的な衝動をごまかしたくて、部屋を見回した。壁はゲームとアニメのポスター、棚と床は漫画、映像ソフト、フィギュアで埋め尽くされている。PCやテレビ、家電の類は高級品が目立つ。金には不自由していないように見えた。たぶん、アフィリエイトの儲けで。

 泉は、捏造と偏向的な記事で中立を装いながら対立を煽るブログ「けいオタ!」の管理人だった。花山の脅しが通じるということは、泉自身も自分が煽り立てた憎悪を自覚しているようだった。

「このウィークリー音雨の記事、最初に大きく取り上げたのはお前だな。リークしたのは誰だ。誰が情報源だ」

 質問が泉の頭に浸透するわずかな間をおいて、花山は再びブラックジャックを叩きつけた。猿ぐつわはそのままだ。花山の質問は情報を得るためでなく、ただ屈服させるためだけのものだった。

 花山は泉の髪を掴んで自分に向き合わせた。泉の反応がさらに弱まったのを確認し、猿ぐつわを取って命令した。

「話せ。誰が情報源だ」

JNコンフィデンシャル 3/14

3 [泉 哲朗]

「たれこみがあった」

 咳きこみながら答える――胸/背中に鈍痛。

 二人の襲撃者=顔を晒していたもやし野郎/最初から目出し帽だった背の低い男。完全に不意を突かれた。身体=椅子に縛られている/手=後ろ手に縛られている――一切抵抗できない。もやし野郎は虚勢を張ってるのが見え見え――どうでもいい。だが背の低い方は要注意――重症のオービットオタク=例のブログが許せないんだろう――完全にキチガイ。何をするか分からない。逆らわない方がいい。

「詳しく話せ」

 背の低い方がブラックジャックを振りながら威圧した。

「メールだ。そのウィークリー音雨の記事とURLが書かれていた。おれはそれをブログに貼っただけだ」

 もやし野郎がおれのPCの前に座って探り始めた。

「パスワードは」

「8、6、1、0、2、8」

 襲撃者たちはなにか言いたげにおれを見つめた。なにか文句あるか――睨み返した。

「メールはいつきた」

「十月六日だ。時間は覚えてない」

 もやし野郎がメールを検索しているようだった。

「『熱愛発覚』、これか」

「ああ」

「それからそいつからメールはあったか?」

「ない。その一通だけだ」

 背の低い方:PCを見ながら、携帯になにか打ち込む/もやし野郎:こちらに来て、わざとらしくおれの部屋を見渡した。

「ずいぶんと羽振りがいいようだな」

 精一杯いきがって、どこかで聞いたような台詞――思わず吹き出した。

「おれは、お前のブログが……お前が嫌いだ。話題作りで対立を煽って、事実を都合良く曲げて、そのくせ自分は中立のふりをして」

 慣れっこの批判――痛くも痒くもない。いくらでも言われたことがある。もっと言いたいことがあるんだろ――薄ら笑いで挑発する。

「なにがおかしい」

 簡単に挑発に乗ってくる。目出し帽の穴からわずかに覗く顔が赤くなっていた。

「あのブログ主を見つけようとしてるのか? せいぜい頑張ることだな」

「なにを偉そうに言っているんだ? 良心のかけらもない、フリーライダー寄生虫ごときが」

 背の低い方が吐き捨てた。

寄生虫けっこう。ところでお前ら、漫画にアニメにゲームにCD、どれくらいカネを払っている? 月に二万か? 三万か?」

 押し隠しながらも襲撃者どもが戸惑っているのが伝わってくる。予想通りの反応――おれは嗜虐的な悦びが沸いてくるのを感じた。

「おれはそうだな、比較的少額の月四十万程度だな。気に入ったものはついつい十個くらい買っちゃうんだが。ブログ運営で入るカネの大部分は、こういうものを買うのに使ってるよ」

 そういっておれは視線で部屋全体を指した。

「汚いやり方で稼ぐカネを自慢してるのか? なにが言いたい」

「なにで稼ごうが払ったカネの価値は変わらねえよ。要するに、おれは作品への愛だの情熱だのを口にしてカネを払わないような、口先だけで綺麗事を並べるやつが嫌いってことさ。おまえらもこんな親衛隊ごっこをしてる時間にバイトでもして、買い支えてやったらどうだ?」

 背の低い方:苛立っているように見える。もやし野郎:言い返す言葉が見つからないようだった。おれはにやけてしまうのを我慢できなかった。

「カネを持っている、カネを使うやつこそが正義だと? お前の年収が一千万だか二千万だか知らないが、それがどうした? もっとカネを持っている、使っているやつはいくらでもいる。その連中の前でも同じことを言えるのか?」

「言えるよ、『あなたのようなお方こそ正しいファン、正しいオタクです』ってね。そういうやつらに比べればおれも取るに足りない存在だよ。でも、おれだってお前ら二人を足したよりよっぽど『貢献』してるよ。お前ら、自分はおれより上等な人間だって思ってるんだろう? だけどそんな上等なお前らは、クズのおれより製作者に報いているのか?」

「ただカネを支払うだけで貢献したつもりになってるが、本当にそれが人のためになってると言えるのか? お前のクソブログのでたらめで、お前の払う百万だか二百万ぽっちのカネ以上に、向こうに損害を与えてないと言えるのか?」

「この資本主義社会、カネを払うのが一番正当な評価の方法だろ。そういうことを言うなら、おれのブログが損害を与えているって証明してからやるんだな」

 背の低い方が一瞬なにか言おうと口を開いて、だがそれを飲み込んだ。おれはこらえきれずに笑い出した。やつが言い返す言葉を全て失って、『お前は間違っている』と言う代わりにおれを殴るしかなくなるところを想像した。笑いが止まらなくなった。笑って、笑って、笑いながら、遠くから『賢く憎め』『憎しみを利用しろ』という声が聞こえてきた。それは、拝島怜司――おれの導き手――がおれに何度となく言っていた言葉だった。

 

 拝島に会ったのは小学生の頃、おれが東北の片田舎に住む、何もかもに怯えていた十一歳のガキのときだった。そのとき拝島は十四歳、やや控えめだが明朗快活、まずまずの優等生と大人に評される中学生だった。

 その頃、おれの通っている小学校で頻発したリンチ事件――大人は『いじめ』と呼んで、結局誰がリンチされたときも法的な措置は取られなかった――は、どれも拝島が焚きつけたものだった。容姿・言動・出身、なにか子供の排他性と暴力性に訴える差違を見つけ出し、その差違にそれとなく気付かせる。片田舎の閉じた世界で漠然とした飢えを抱えた子供は、渇いた喉を潤すように精神的/肉体的な暴力に走った。おれ自身もその輪に加わったことがあった。外国人の子供を同じ子供の集団が取り囲んで、笑いながらつつき回し、引き倒し、殴り、蹴る。一方おれたちを誘導した拝島はといえば、少し離れたところから、あるいはリンチが終わったあとで、おれたちのほう――加害者のほうをどこか不思議そうに見つめていた。

 なにを見てるの――おれは、おれたちを見つめる拝島を見つけ、そう話しかけた。

「分からない。あれは、なんだろう」

 そのときおれは、そう答えた拝島の目に自分と同じ怯えが潜んでいるのを見た。それからおれは拝島のあとをついていくようになった。きっとこの怯えから解放される方法を見つけられると思って。

 しかしそれはおれの勘違いだった。拝島は怯えていたわけではなかった。憎しみの力を見定めようとしていたのだ。賢く憎むことを。憎しみを利用することを。

 

 今から七年ほど前のことだった。

「ほら、見てろよ」

 そういって拝島は、おれの目の前でゲームのディスクにカッターを入れ、その傷からディスクを真っ二つに割った。なにするんだ? 拝島が突飛な行動をするのはいつものことだったから、おれは驚きでなく興味から聞いた。

「いいから見てろよ」

 拝島はA4一枚のビジネス文書然――だが書面には「返品」「処女膜」という単語が踊っている――とした書類を印刷して割ったディスクとテーブルの上に置き、デジカメでそれを撮った。そしてデジカメをPCにつなぎ、その画像を掲示板にアップロードする。

「二十二分。まあまあだな」

 そういって拝島はストップウォッチを止めた。所要時間をカウントしていたようだ。

「言ってみれば、新しい『スタイル』の提唱だよ」

 おれの質問に、拝島は笑みを浮かべてそう答えた。

「手早く簡単に憎しみを撒く方法だ」

 拝島はスレをリロードして反応を見ながら続けた。

「なかなかショッキングで面白い絵面だろ? 小難しい理屈やキチガイみたいな台詞を考える必要もない。みんな掲示板で長文連投するキチガイには慣れちゃったしな。これなら手元のディスクを割る、それをデジカメで撮る。それだけだ」

 画像にレスがつき、拝島の投稿は間違いなくスレに刺激を与えていた。拝島はそれを見て満足していた。

「見てろよ。そのうちすぐに真似するやつがでてくるぞ。そうすると、真似した奴を見てまた別のやつが真似を始める。憎しみはもっとカジュアルになる。憎しみの水準がまた少し上がるわけだ」

 拝島は、冗談めかして『魔法使いになりたい』と言っていた。世界に漂う憎しみが魔力だ。魔法使いはそれを集め、方向性を与え、大きな一つの力にする。世界が憎しみで満ちれば、魔法使いはより大きな力を振るえる。

 その後拝島は東京の大学に進学し、しばらく会うことはなかった。

 

 拝島と再会したのは、おれも大学で上京したときのことだった。

「お前、ブログの管理人やってみないか?」

 突然アパートに押しかけてきた拝島がおれに持ちかけた。

「上手く人を集めればいい小遣い稼ぎになるぜ」

 賢く憎め――憎しみを利用しろ――これはその訓練だ。拝島が口にしなくてもおれには分かっていた。拝島に言われるままおれは承諾した。

 あれからなにやってたんだ? こまごまとブログの引き継ぎを受けながらおれは聞いた。

「面白い男を見つけてな。そいつの手助けをしていた」

 そう言って拝島は煙草をくわえたまま――上京してから覚えた趣味だと笑っていた――蝶ネクタイとサスペンダーを取り出した。アイコンの力。シンボルの力。力を集める力。具現する力。拝島がこのところ存分に奮った力のようだった。

 そして拝島はまたおれの前から消えた。だが、おれがブログを更新するたび――ブログのことを考えるたび、拝島の言葉がおれの脳裏に蘇った。賢く憎め。憎しみを利用しろ。

 言葉がおれの背中を押す。おれは拝島の行動をなぞった。構図を作る。対立を煽る。衝撃を与える。演出する。

 またぞろ処女だの非処女だのの騒ぎが起きた。おれはその漫画本を切り裂いた画像を投稿し、それをブログで取り上げた。阿呆どもがそれを見に来る。カウンターが回る。懐が潤う。――賢く憎め。憎しみを利用しろ。憎しみは、力だ。

 拝島がおれの中に入り込んでいく気がした。

 

 気付くと襲撃者二人がじっとおれを見ていた――いったい何分間、おれは笑い続けていた?

「なぜウィークリー音雨を取り上げた?」

「……なに?」

 四つの目がまっすぐおれを見つめていた。

「アクセスが稼げるから。収入が増えるから。決まっているだろ。おれはもっとカネが欲しいんだ」

「そしてそのカネで『貢献』するのか」

 目出し帽からの視線――敵意/悪意でない――憐憫のように見えた。

「そうだ。いくら言葉を並べたところで、結局それがおれたちの正しいあり方だ」

 おれを憐れむな。

「無理してるように見えるぞ」

 背の低い方がなにか言っている。視界はいつの間にかにじんでいた。笑いすぎたせいだ、きっと。

「なぜウィークリー音雨を取り上げた」

「だから、カネのためだと言っているだろ!」

「ならなぜあんなパスワードにした? 天井のポスターはなんだ?」

 パスワード=愛生の誕生日――毎日打ち込んでいる。天井のポスター=オービット――毎日目が覚めると最初に目にする。

「お前もただのファンなんじゃないのか!? 自分で自分を傷つけて、なにがやりたい!?」

「ファンなんて一人残らず死ね! この程度でファンをやめるようなやつなんて目障りなんだよ! 一生愛生に、おれに関わるな!」

 抑制できない――言うつもりのないことまで叫んだ。

「ファンを淘汰する、オービットと自分自身の関係に向き合うことのできないファンには去ってもらう。そう言いたいのか?」

 答えるつもりはない――おれは言うべきではないことを言った。

「お前のスタンスは理解不能というわけでもない」

 喉が痛い/身体が熱い。殺せ。おれを殺せ。

「お前、矛盾してるな」

 うるさい。

「お前の眼鏡に適う人間だけ淘汰して、残ったファンは何人になる? 切り捨てた人間が払うカネを集めれば、おれたち――おれと、こいつと、お前を足した全部よりずっとたくさんのカネになるんじゃないか? 真に『貢献』しているのは、そういう名無しの連中じゃないのか? それなら、立ち去るべきはおれたちじゃないのか?」

 うるさい。うるさい。うるさい。

「立ち去るべきはおれたちかもしれない。だが、おれたちにはその前にやることがある」

 背の低い方がおれを掴み上げた。至近距離で睨みつけられる。視線を外せなかった。

「盗撮したやつを見つけ出す。そいつに償わせる。それができるのは、名無しの連中じゃない。おれたちだ。おれたちが消えるとすれば、そのあとだ」

 嗚咽が漏れた。賢く憎むことはできなかった。おれはおろかだった。憎しみがおれの手綱を離れていくのが分かった。

 

「どこの誰だ。おれを売ったのは」

 拘束を解かれた/おれはさして期待もせずに聞いた。

「オービットファンの大物、とだけに言っておく」

 花山――背の低い方――は冷淡に切り捨てた。予想通りの反応=情報源の保護。

「はっ、知り合いのスーパーハカー様かよ」

「その人物に情報を渡した。次は、お前に情報をリークしたやつを絞り上げる」

 おれの悪態を無視し、花山が告げた。おれはその目に怯えを探した/意志しか見えなかった。行動の意志。指向性の激情。純化した狂気。

JNコンフィデンシャル 4/14

4 [橘 創]

 退屈な会議。不毛な会議。無益な――。

 スーツ姿の人間が議論している。プロデューサーどもが議論している。スクリーンに色鮮やかな文字が、図が踊る。プロモーションのテーマ。コンセプト。スケジュール。ターゲット。シナリオ。

 新しい方策が必要だ。新しいキャンペーンが必要だ。新しいイベントが、新しいアイドルが――

 ホワイトボードに写真。証拠。証言。事実を集め、証言を集め――

 くだらない。会議は無意味だ。意見は無意味だ。論理は無意味だ。マーケティングは無意味だ。

 高木社長の姿を探す。いつの間にかいなくなっていた。

 居場所はない。ここは安全でない――

「おい、いくぞ」

 私は隣のあずさに声をかけて席を立った。あずさを連れてそろそろと会議室から出る。 視線が向けられる。私に。私と連れに。腫れ物に。狂人に。

「会議、いいんですか?」

「時間の無駄だ。売り上げが伸びないのはプロデューサーの力量の問題だ。個人の能力の問題だ。会議しても意味がない」

 あずさの問いかけにうんざりして答える。

「ターゲット? シナリオ? くだらない。人間の主観を集めて撚り上げてなにか一つの『ファン』なる人格をでっち上げてなにになる? 不完全な感覚をいくら集めたところで、出来上がるのはきまぐれで横暴な、錯乱した人格だ。泥で偶像でも作る方がマシだ」

 あずさが私の話にはもう興味をなくして、廊下のあちこちを見回している。私はそれにかまわず続けた。

「だが、私たちはその狂人に媚びを売って機嫌を取らなければ生きていけないんだ。狂人の奴隷なんだよ、私たちは。あいつらにはそれが分かってない」

 高木がいた。高木泰司。私を拾った恩人。私を救った恩人。私を――

「会議は終わったか」

 あずさが高木にすり寄る。高木はかがんであずさの顎を撫でた。

「馬鹿につきあっても時間の無駄です」

「そうだろうな。お前は好きにしていい」

 寛大な言葉と冷徹な視線。お前を、お前の全てを知っているぞという視線。

 高木泰司。私を拾った恩人。私を救った――

「じゃあ、もっと若い娘を回してもらえませんか?」

 あずさは高木に撫でられるまま――高木の手が首筋へ、胸元へ――

「あなたのお父さんは立派な人よ」

「若い娘が歌う、踊る、笑う、泣く、苦しむ。結局これです。これが見せ物になる。男とか年増じゃだめです」

 あずさが恍惚の表情を浮かべる。

「あなたはお父さんの息子よ。お父さんの血を引いているのよ」

「私にやらせてください。一年でファン三百万、ドームコンサートまで持っていきますよ」

「考えておこう」

 気のない返事――くそ。

 あの女を貶めろ――

「いくぞ」

 あの女の口をふさげ。引き倒せ。闇に葬れ。

 あずさに声をかけ、立ち去る。あずさが高木の元を離れ、おれの元に寄ってきた。

JNコンフィデンシャル 5/14

5[小立 俊弘]

 泉の襲撃から数日後。おれ、花山、泉はまた泉のマンションに集合した。呼び出した花山は、今後の作戦会議だと言った。

「犯人像はあるのか?」

 泉が聞いた。

「そうだな。まず言えるのは、そいつはオービットのファンでもアンチでもないだろう」

「なぜそう言える?」

「文章を読む限り、個人的な執着が見えない。隠して冷静を装っているようにも見えない」

 それは自分も感じていた。

「なるほどね。それで?」

「個人的な執着じゃない、つまり何らかの実利的な面からやっている、と思う」

「実利的?」

「ああ。スキャンダルから経済的な利益を得られるとかな。一番わかりやすい動機は」

「つまり?」

「彼女たちの商売敵。同業他社だ」

「オービットのファンを横取りすると?」

 花山の推理を追いかけて質問を重ねながら、泉が静かにため息をつくのが分かった。つきあってられない、ということだろう。それに気付いてか気付いていないのか、花山が続けた。

「まあ、一番分かりやすいのがそれだ。あとは……スキャンダルを起こすこと自体が目的で、オービットである必要はない、とかな」

「どういうことだ?」

「例えば、フリーの記者だ。反響の大きそうなスキャンダルを押さえて、それを高値で売る」

「もう公開しちまってるぞ」

「もっといい売り物があるのかも。あるいは、あのブログ自体が既に契約の範囲なのかも」

「なら同業他社と同じじゃないか」

「ちがうな。おれの目的はあくまで下手人、盗撮した人間だけだ」

「なに?」

 聞きかえした泉を、花山は目を細めて見返した。

「組織を相手にはできない。あくまで行為に対する報復だ。どのような立場、理由だろうが、彼女たちを傷つけた奴は許さない」

「指図した奴らが無事なら、この次があるかもしれないぞ」

「そうかもしれない。だが、おれはまずできることをやる。次があったら……そのときは指示した奴も標的にするかもな。下手人だけじゃなく」

 誰ともなくため息が漏れた。報復。シンプルな考えだが、報復を重ねたその先の荒涼とした風景を思い浮かべずにはいられなかった。

 

「なあ、なぜそこまでやるんだ?」

 泉が、おれも抱いていた疑問をぶつけた。

「オービットのファンだからだ」

「それは分かってる。それだけじゃないだろ」

「ファンだから、で十分だろ。おれはオービットの活躍が見たい。ステージが見たい。彩陽の歌が、演技が聴きたい。このエゴを邪魔する奴には容赦しない」

「そうかよ。でもお前、今まで声優とかアイドルを好きになったことないのか? オービットが初めてなのか?」

「なぜ初めてかどうかが関係ある?」

「なぜって、スキャンダルってものは今も昔もあっただろ。まさか今までずっと、どこかスキャンダルが起きたところに飛んでいっては怪しい奴を片っ端から締め上げてきたわけじゃないよな?」

「そうだな。今までは、こういうことが起きてもおれはなにもしなかった。ただ見ていただけだ。結局のところ、おれはここまでしたくなるほどオービットが好きだと言うことかも知れない」

 そう言ったあと、花山ははたと気付いた風に付け足した。

「ああ、やっぱり『ファンだから』で十分じゃないか」

 一瞬、花山の努めて無感動を装う仏頂面の奥に怒りや焦りや憎しみでない、おだやかな感情が見えた気がした。

「楽しみだな、次のライブ」

 口を挟むつもりはなかったのに、思わず言葉が漏れていた。言ってしまったあとに場違いな気がしたが、続く沈黙には意外なほど共感がこもっているように思えた。オービットの活動が楽しみだという点は、この三人でも共有できる。そう思った。

「どこの誰かか知らないけど、どうしてこんなことするんだろうな」

 不思議と怒りも憎しみもなく、ただ悲しさから、誰ともなく宙へ問いかけた。

「スキャンダルに『価値』があるからだ」

 そう断じた花山の瞳が暗く燃えていた。

「おれたちが、写真一枚、動画一つで慌てふためくからだ。信仰が弱く、己の幻想に簡単に踊らされるからだ。だから、スキャンダルに『価値』が生まれる」

「でも都合のいいユメを見せてカネを儲けているのは向こうだぜ?」

「彼女たちが創るものには相応の価値があるんだ。だから買う、それだけだ。当然だろ。お前はあの値段で幻想まで買っているつもりなのか? それで買った幻想が気にくわないと騒ぐのか?」

 花山は激情を押さえ込むように長く息を吐いた。

「おれたちは、自分が払った以上のものを求めているんだ。だから今回のように誰かにつけ込まれる。そしてそのツケを払わされるのは、彼女たちなんだ。おれたちが払ったと思っている分なんて、彼女たちに比べればないも同然だ」

 花山が身を乗り出した。

「おれたちは、彼女たちにあまりの多くの犠牲を強いている。そう思ったことはないか?」

 花山の言葉に、おれも泉も答えられなかった。

 もしおれたちが……オービットのファン全員が、勝手な幻想に浸る人間じゃなかったら。歪んだ幻想を押しつけながら『幻想を買っている』と言って、それが否定されると恥ずかしげもなくその次を要求するような人間じゃなかったら。だとしたら、犯人もこんな事件を起こす気にならなかったかもしれない。人間がいる限り悪意というものはどうしてもある。だからどんな世界でも有名人のプライベートを晒す人間はいるかもしれない。しかし、だとしても、それで裏切られたと追い打ちをかけるような馬鹿の数は、きっと今よりずっと少ないのではないだろうか。

「おれたちにオービットオタク全員の責任があるのか? おれたちは、マトモなほう、マシなほうだろ?」

「違うんだ。おれたちもあいつらなんだ。あいつらも、おれたちなんだ。他人事にはできないんだよ、これは。誰かが正義を示さなきゃ。このことに気付いたやつがやらなきゃいけないだろ。もしおれたちがマトモだとするなら、やるのはおれたちだ」

 花山が椅子からゆっくりと立ち上がった。

「変わる必要があるんだよ」

 見下ろす花山の視線に耐えられなくなり、おれは俯いた。

 

 重たい沈黙を破って振動音が響いた。花山の携帯だった。

 ――ええ。今そいつの家にいます。三人で。一人はおれが。いや、こちらは進展なしです。じゃあそちらはおれに任してください。

 花山は手で口を覆ってしゃべっていた。通話は1分ほどで終わった。

「次の作戦が決まった」

 花山が告げた。

「泉にリークした奴が次に現れる場所が分かった。そいつを尾行して情報収集する。行動パターンが分かったら、安全なタイミングで襲って尋問する」

 泉のときと違って下準備からってわけだ、と続けた。

「こんなこと、いつまで続けるつもりだ?」

「犯人に行き着くまで。犯人に償わせるまでだ」

 花山の表情から一切の迷い、他人を必要とする気配が消え、代わりに破裂寸前まで圧力を上げた激情とそのぶつけ先を見定める冷徹さが浮かんでいた。そのただならぬ雰囲気に、おれも泉も慌てた。

「待て、待てよ」

「おれの時も、犯人に償わせるって言ってたなかったか? それはどういう意味なんだ?」

「決まってる。そいつを殺す」

 予想はしていたが、聞きたくない言葉だった。本当に犯人を見つけられるのか、殺せるのか疑問だったが、花山が本気なのは確信を持てた。

「彼女たちの心痛が下衆の命一つで釣り合うなんて思っちゃいないが、犯人が今でも息をしているのは我慢ならない。犯人は、見つけて殺す」

 泉も言葉を失っていた。

「ああ、お前らは今の聞かなかったことにしてもいいぞ。手を下すのはおれだ。おれがもし捕まっても、まさか殺すなんて思わなかった、とでも証言すればいい」

 今日はここまでだ、作戦の詳細はあとでメールする。そういいながら花山はおれたちに背を向け、ドアの前までいったところで振り返った。

「だけど忘れるなよ。これは、おれたちの……お前の人生の問題だ」

 花山の言葉に、一瞬、適切な単語を探すような間があった。

「忠誠を示せ。おれたちにはその義務がある」

JNコンフィデンシャル 6/14

6 [泉 哲朗]

 花山からの情報=被疑者:男/二十~三十代/身長は百七十前後/中肉中背。そいつが目の前の雑居ビルからおれに接触した。おそらくは、店子の芸能事務所・中村プロダクション関係者。建物の前で張り込み、被疑者が出てきたら尾行して特定する。花山の指示=三人で張り込み――おれ/小立/花山。おれと小立:事務所の左右に分かれて張り込む/同時に二人まで追跡可。花山:離れたマンションの上階から全体を監視/小立とおれに指示する。裏口はノーマーク――使用頻度は低い――動きがあれば花山が指示を出す。

 事務所は渋谷の繁華街を少し外れたあたり、煉瓦造りの雑居ビルにあった。五時から張り込み開始、四時間強が経過。この間、出入りは若い娘が三人と宅配業者が二件=全員はずれ。

 特徴の一致する人間はまだ一人も出てこなかった。八時頃からは出ていく人間ばかりで、入っていく人間はいなかった。九時を過ぎるといくつか部屋の電気が消えた。情報が正しければ、恐らくもう標的の男しか事務所にいないだろう。と、また一部屋電気が消え、誰か出てきた――三十そこらの事務員然とした女=はずれ。やつは終電帰りか、もっと遅いか――。

 退屈で思考が拡散する。小立の顔が浮かぶ。「これ、やるよ」張り込みを始める直前、小立はそういってチケットを差し出した。夏頃の――だいぶ先だ――オービットのツアー。仲間内でチケットが余ってね、せっかくの機会だし、あんたたちもどうかな、ってね。小立はそう言い訳がましく続けたが、花山もおれも呆れて無視した。当然だ。おれとあいつの関係で誘いを受ける理由はない。

 欠伸を噛み殺す。足下には缶コーヒーの空き缶がいくつも転がっている。標的が見つかるまであと何本増えることか。煙草でも覚えてればこういうときに吸うんだが――そういえば拝島が吸っていたのはどんなやつだったか。そのとき、事務所の裏手の暗がりにちらりと動くものがあった。赤い/またたく――煙草。花山にコールする――1コール以内に接続――「建物の裏側、誰かいるぞ。煙草吸ってないか?」「見えてる。そいつは関係ない。それより事務所に動きはないのか」

 舌打ちして切る――くそったれ。早く出てこい。早くおれを解放しろ。そうしたら、すぐにおれたちのキチガイがお前を絞り上げてやるから。