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怪文書置き場

STBTYR 2-1

1.
 ルドノア共和国にとってこの十年ほどは、植民地時代の統治戦略に端を発する民族紛争と多国籍軍の強引な軍事介入が終わり、実質的な占領状態から民主化プログラムの実施を経てようやく訪れた、平和な時間だった。しかし『ルドノアの子どもたち』による伯爵の暗殺後、ルドノアの治安は坂を転げ落ちるように悪化していた。ルドノアが平和な間も周辺国で対立を続けていた武装勢力が教会の混乱に勢いづいて侵攻しはじめたのだ。国境では散発的な戦闘が増加している。ワーグらが潜伏している首都郊外でも戦闘が起きるのは時間の問題だった。
 相対的に治安の安定した隣国までは航空機を使い、そこからルドノアの教会支部と取引のある輸送業者のトラックで物資に紛れ、首都まで潜入する――マリアと礼拝技術部の用意したプランは、途中までほぼ完全に機能した。状況が変わったのは、ルドノアに入国してからだった。ルドノア内は検問が多数設置され、首都への経路は明らかに警戒されていた。国境越えのためにルドノア軍の将軍の名前入りの通行証を用意していたが、いつまで通用するか分からない。目的の時間までの余裕は十分あった。シーナとカリンは計画を変更し、首都の手前二十キロ程度のところでトラックを降りて徒歩に切り替えることにした。

 太陽が登りきる少し前だった。無言で街道を歩くシーナとカリンの姿は、隠密行動用の魔術によって可視光とサーモスコープ、近距離レーダーの波長に対して透過する。今の二人は太陽に灼かれた地面から微かにのぼる陽炎ほどの存在感もない。魔術的探査の兆候はなかったが、二人は使い魔を斥候として放って周辺を警戒しながら首都を目指した。
 ルドノア政府と教会、合衆国政府の関係は良好といえるが、諜報に関しては信頼関係は皆無といっていい。ルドノアの正規軍と教会の執行機関が敵対関係にあるわけではないが、『子どもたち』に教会側の動きが漏れる可能性が排除できない以上、教会はルドノアの国軍および市民を潜在的な敵、その領土を敵地とみなして行動する必要があった。
 しかし目の前の難局を確かに認識しながら、シーナははっきりと気分が高揚していた。まぎれもない敵地にいるという危機感と恐怖は、むしろその燃料になっていた。
 シーナにとって、ルドノアと虐殺の記憶は分かちがたく結びついている。だからシーナは伯爵に連れ出されてからその後の情勢を調べることに積極的ではなかったし、ルドノアを思い出させるものからも距離を取っていた。この国に戻ることなど二度とないと無意識のうちに決めつけていた。しかしいまこうしてルドノアに戻ったシーナを虐殺の記憶が苛むことはなかった。シーナは、いまのルドノアを、カリンと赴いた紛争地帯の一つとしか認識できなかった。
 シーナは前方に視線を向けた。背筋をぴんと伸ばし、周囲をするどいまなざしで警戒しながる進むカリンを、いまは魔術で姿を隠して目で見ることはできないが、確かに感じることができる。子どものころにはいなかった、自分を導いてくれる存在だ。だから忌まわしい故郷に戻っても己の記憶に溺れたりしないーーそう思うと自然と歩くペースが上がりそうになり、シーナはそのたび落ち着けと自分に言い聞かせた。

 街道は軍の車両が頻繁に行き交っていた。国境への増員と首都の警戒が並行して進んでいるようだ。首都の入り口の検問では装甲車まで配備されていたが、今の二人に対しては何の意味もない。通行を許可された車両の脇をやすやすと通り抜けて首都に入った。
 首都内部でも兵士たちの姿は目立つが、それでも商店や広場は一般市民にあふれ、活気があった。人混みに紛れるには十分だと判断し、二人は路地に入ると透過魔術を停止した。ここから先は、いつ『子どもたち』と戦闘になってもおかしくない。大聖堂への接続数が限定されるこの状況で、戦闘用魔術を展開しながら透過魔術を維持できるほどの大量の魔力をまかなうあては、カリンにもシーナにもなかった。
 カリンが指輪やネックレスに指を這わせて魔術道具の動作を確認する横で、シーナはバックパックから電磁波シールドのパックから三つの携帯電話を取り出した。二つは廉価な民生品だが、一つは教会の機密を扱う人間に支給される特殊タイプだ。それぞれ電源を入れ、ルドノアの通信業者のネットワークに接続し、システム監視コンソールを起動する。民生品の二つはすぐにマルウェアに感染すると、端末のデータをどこかへ送信していた。行き先の候補、マルウェアをばらまいた容疑者はいくらでもいる。あくどい小売業者、情報封鎖したい製薬会社。そのおこぼれにありつこうとするマフィア。さらにそいつらの首根っこを押さえたい警察機関。『子どもたち』の可能性も、それを警戒するルドノア軍やPMSCの情報部隊、公的諜報機関――ルドノア政府のものはもちろん、CIAやその下請けの線も十分ありえる。二つの携帯電話が『汚れた』ことを確認し、シーナは一つをカリンに渡し、もう一つを自分のバックパックに戻した。
 一般人が購入できる民生品の情報機器は、この五年以上、各種演算性能の向上が止まっている。先端情報機器の製造コスト上昇が、『一般消費者向けの、従来製品より廉価かつ高機能な情報機器』というマーケティングを過去の遺物としてしまったのだ。一般消費者が今持っている機器より高性能なものが欲しくても、その商品は通常品の百倍以上の価格になってしまい、企業や富裕層しか手に入れることができない。市場に流通する機器の処理性能が頭打ちになったことで、それらがネットワークに接続するさいの暗号通信やセキュリティシステムも、その性能の向上が難しくなった。つまり、従来型セキュリティしか使うことができない従来型機器のネットワークは、一部の『持てるもの』の新型機器による攻撃に対抗することができないのだ。先ほどのシーナたちの携帯電話のような民生機器のネットワークの汚染――データ傍受、監視・盗聴の横行は、これらの状況が生み出した必然だった。コモ・ライン――通常回線と呼ばれる民生機器のネットワークでは、もはや通信インフラに支えられたプライバシーやセキュリティは存在しない。コモ・ラインにおいて商取引はその汚染性に見合った規模のものに限定され、一般消費者は自身の情報の漏えいを許容可能なリスクとすることを現代の文化として受け入れた。
 その文化を経済力を持って拒否することができるものたちの『クリーン』なネットワークは、セク・ラインと呼ばれている。民生機器とは隔絶した処理性能を前提としたセク・ラインの通信システムは、セキュリティ突破の難易度もコモ・ラインとはまったく違う。通信は傍受されるものと考える必要があるコモ・ラインに対して、セク・ラインはその心配はない。シーナたちは、コモ・ラインの端末を市民に偽装するために、セク・ラインのものを教会と通信するために用意していた。
 シーナはもう一つの携帯電話――セク・ライン用の端末を起動した。礼拝技術部の支援コンピュータおよびラボのデータベースとのリンクを確立。何者かに通信を傍受されている形跡はなし。シーナは手早くラボで今も行われている実験のサマリーに目を通した。実験のデータは、ラボから何千キロと離れたルドノアでもセク・ラインを経由してリアルタイムでチェックできる。出発のぎりぎりまで粘ったが、大聖堂一つ分の魔力で『子どもたち』――ワーグを倒す手段は、まだ見つからない。ぎりぎりまでとにかくあがき続けるしかなかった。
 準備が終わった。正午をすぎ、気温はじりじりと上昇して日中のピークを迎えようとしていた。大きな翼のついた流線型の影が太陽に炙られる大通りをさっと横切っていった。かつて占領軍が使っていたものをルドノア軍が買い取ったのだろう、旧式の無人偵察機だった。二人は路地を出て、ルドノアの日差しと人混みの中に紛れ込んだ。

 二週間前の夜更け、ノア族過激派の幹部としてルノ族虐殺への関与が疑われながらも証拠不十分で追求を逃れていたさる元大尉が、自宅ちかくで銃撃を受けて殺された。その捜査でルドノア警察の監視下に置かれた容疑者の一人に、とある少年がいた。その少年が捜査線上に浮かんだのはあいまいな目撃情報がきっかけだったが、明らかに高度な訓練を受けていることが分かるほど銃器の扱いに習熟していたのだ。一方大尉の銃撃に前後して、東南アジアの教会支部と密接な協力関係にある諜報機関が、『子どもたち』のメンバーリストに一人の少年を追加した。その少年が現れるところで『子どもたち』の推定される収入の十パーセントにせまるカネが動いており、つまりその少年は幹部かそれに近い存在に違いなかった。
 実はこの二人の少年は同一人物だったのだが、数日後に教会の情報部がこれに気付いて慌ててルドノア警察に照会したときには、国境周辺の戦闘の増加と警備の増強が始まっており、少年は監視がゆるんだ隙に姿をくらませていた。
 その後の教会のなりふり構わない圧力が功を奏したのか、少年を再び捕捉できたのが三日前のことだった。さらなる収賄か脅迫か、よりあからさまで強硬な手段を駆使し、教会はルドノア警察に『しばらくその少年は泳がせる』という合意を取り付けた。教会は『子どもたち』の実態をほとんど掴んでいない。少年を利用して『子どもたち』の他のメンバーを釣り上げる――それが教会の実行可能な唯一の作戦だった。

 『子どもたち』の幹部と目される少年は今日、この国の言葉で「夜明けの紫月」という名のレストランで開かれる、実業家たちの集会に現れる。それが教会の掴んだ情報だった。情報通りなら少年はもうそのレストランにいるはずだ。先回りして少年が店に入るところからマークするのが元の計画だが、最大の目的は帰りの尾行だった。教会側、シーナたちが『子どもたち』について知っていることはあまりに少なすぎるが、少年と彼の行き先は突破口――ワーグへ繋がる道になりうる。
 そのレストランは、大通りから一つ外れた、多少寂れた通りの角にあった。この街の多くの建物と同じくレンガ造りで、窓は少ない。ちらりと中をうかがったが、案の定集会の参加者たちは外から見えるようなところにはいない。当然の警戒だろう。使い魔を店内に放てば少年がそこにいるのか、中の状況がどうなっているのか、会話の詳細も分かるが、そういうわけにはいかなかった。ワーグたちはカンダート伯爵を魔術で倒した。それほど魔術に造詣のある連中なら、こちらの使い魔に気付く可能性がある。そうなれば少年は尾行を警戒して『子どもたち』に繋がる場所を避けるだろう。それは絶対に避けなければいけなかった。
 周囲は人通りが少ないうえ、何時間も身を隠して待ちぶせできるような死角はない。どこか離れた場所から見張る必要があった。索敵と隠密行動に特化した使い魔を店を監視できるぎりぎりまで離れた位置に放ち、二人は一旦その場を離れた。

「だいじょうぶ?」
 カリンがシーナの顔を覗き込んでいた。考え込んでいるうちに顔色が悪くなったのかもしれない。
 二人はレストランから一ブロック離れ、寂れた喫茶店で待機していた。
 問題ありません、と答えてかぶりをふる。気を引き締める必要があった。
「ここに戻ってくるのは、やっぱり辛い?」
「そんなことありませんよ」
 いつわるところのない正直な気持ちだった。十三年ぶりにこの国に戻り、確実にこちらに逆襲できる相手との戦闘が刻一刻と近づいている状況でも、シーナは自分が思ったよりずっと平静を保てていた。その代わり、普段と変わらないーー今日までの十三年間と変わらないような後ろ暗さを抱えていた。
『わたしにも行く理由があるんです』
 旅立つ前、シーナはカリンにそう言った。しかし、その中身のことは今日まで一言として触れていない。
 ワーグを止めなければ、自分はいつまでもあの虐殺の記憶から逃れられないーーなぜなら、伯爵の殺害犯にして『子どもたち』のリーダーであるワーグは自分のかつての友人であり、忘れがたい負い目があるからだーーそう説明しようとしながら、シーナは踏み切ることができなかった。十三年前のこととはいえ、姫の仇との関係を明かすのが恐かったからだ。
 自分が今のワーグについて知っていることはほとんどない。それにワーグとの関係はマリアは知っているから、カリンは彼女から報告を受けているかもしれない。だから、今自分がカリンに自分の動機を告白することに戦術的な価値はなにもない。そう思いながらも、シーナはワーグとのことをカリンに隠しているのが後ろめたくてたまらなかった。
 しかし、迷っているうちに二人は敵地深くまで来てしまった。少年の尾行に入れば、いつ戦闘になってもおかしくない。シーナは焦らずにはいられなかった。きっともう、残された時間はわずかなのだ。

「このあたりはざっと十年は戦闘もないですし、わたしにとってはアメリカではないというだけの国です」
「そう」
 カリンのあいづちは、納得したようにも疑っているようにも聞こえなかった。
 カリンは、今まで一度としてシーナの言う『理由』を詳しく聞こうとはしなかった。もちろん、シーナに興味がないから、ということではないだろう。その心遣いは嬉しかったが、いっそのことずけずけと聞いてくれればいいのに、と考えてしまう。
「姫は、なぜ……」
 気付いたらそう口に出していて、シーナは血の気が引いた。全身からいやな汗が吹き出した気がした。
 店の奥から不機嫌そうな店員が現れると、客が帰って何時間もそのままにしていたようなテーブルの一つから皿とコップを下げ、また店の奥へと戻っていった。そのがちゃがちゃとうるさい片付けの音が消えると、客の少ないカフェはおどろくほど静かだった。
「わたしは、伯爵に救われて、姫に出会って、別の人間になれました」
 耐えられなくなってシーナは口を開いた。
「ここには大きな貸しがあります。今なら、それを取り立てられるんです」
『そう思います』だとか『きっと』だとか、気弱なことを付け足しそうになるのを我慢する。強気を装ってまくしたてたが、一度口を閉じるとまた後悔の波に飲まれそうだった。
「強いね」
 ぽつりとカリンがつぶやいた。
「自分のあゆみを信じてるのね。日々の祈り、魔術技師としての研鑽……」
「そんな。魔術の研鑽は、姫こそ積まれているではないですか。姫はこれまで多くの敵を斃してこられました。それを果たしたご自身の魔術のことは、信じておられるのではないのですか?」
 返事はない。カリンはただ困ったように微笑んでいた。しかし、戸惑っているのはシーナも同じだった。積み上がる敵の死体。己の魔術。後悔を抱えていると、自分が信じてもいないことばかり口にしてしまいそうだった。
「姫……」
「実はわたし、この国に来たことがあるの。子どものころに。小さいころに」
「え」
 カリンがこれほどはっきりと過去の話をするのは、シーナが覚えているかぎり、これが初めてのことだった。
「この国の人たちや街のことは覚えてないんだけど、一つだけ、はっきりと覚えてるの。まぶしいくらいの星空。大きな流れ星……」
 カリンは夢見るように目を閉じた。その表情は、なぜなのか、シーナがいつも想っていた横顔とは違っているように感じた。
「綺麗すぎて目が回りそう。そんな夜空だった。きっとあれが、わたしの人生でいちばんの風景」 
 カリンは小声で歌い出した。古い映画の歌。シーナも知っている曲だった。『星に願えば』。
『星に願いをかけるとき、誰だって、心をこめてのぞむなら、きっと願いは叶うでしょう』
 つぶやくようなその歌声に耳を澄ませて目を閉じると、シーナの脳裏にも子どもの頃のーールドノアにいた頃の夜空が浮かんだ。アメリカに来てからシーナが住んだのは都市部ばかりだったが、あの頃は周囲に灯りが少なくて、夜の空はいつも数え切れないほどの星々でいっぱいだった。
 草が風に揺れて触れあう音に混じってワーグが歌っていた。ただ元気なだけのその歌声を、シーナは今このときと同じように、目を閉じて聴いていた。
 シーナは知っている歌すべてを教えたが、ワーグが一番気に入ったのは最初に教えたきらきら星だったーー。
 歌が途切れた。石英の瞳が、テーブルに置いた自分の手、シーナの背後、上方にある店の天井かなにか、もう一度テーブルの上、と視線をさまよわせる。
カップに触れた指がその表面をなで、力がこもり、ぬけた。そのどうということのない仕草のひとつひとつに、シーナは危うさを感じて目を離せなかった。
 カリンがようやく口をひらいた。絞り出すような声だった。
「わたし、シーナに言わないといけないことがあるの」
 いやだ、聞きたくないーーさっきまで余計なことばかり言っていた口が、ふるえて動かなかった。
 そのとき、「夜明けの紫月」を見張らせていた使い魔が目標――『子どもたち』の少年が店を出たのを捉えた。カリンもシーナの様子ですぐ気付いた。
「行きましょう」
 シーナは立ち上がった。これ以上混みいった話をしたくなくて、緊張が伝染して足が震えるのも、ワーグのことを話す機会を逃したことも気にならなかった。

 二人は大通りを少し歩いたところで少年に追いついた。十メートルほど距離を空け、間に通行人を十分挟んで尾行する。
 背の高い、手足の骨だけが先に発達して他の骨格や筋肉の成長を待っているような、はっきりと成長の途上にある少年だった。出発前に写真を見たときは間もなく成人になる程度の歳だという印象だったが、もっとずっと若い。多めに見積もっても十六歳か、とシーナはあたりをつけた。
 一台のピックアップトラックが向かい側から走ってきて、少年の傍で止まった。シーナは顔をしかめた。車は用意していない。もし少年が車に乗ったら、その時点で使い魔での追跡に切り替えざるをえなかった。
 ドライバーの青年が窓から顔を出すと、彼が口を開く前に、先んじて少年の方が一言二言話しかけた。なにを聞いたのか、ドライバーはすぐにトラックを出すとターンして元の道を戻っていく。少年はまだ徒歩で移動するようだ。シーナはそっと胸をなでおろした。
 少年は、どこか目的地へ迷いなく歩いていた。首都の密集地からはどんどん離れていく。人通りも少なくなって尾行が目立ちつつあったが、道のわきの建物はまばらにならず、途切れず続いているのが幸いだった。
 周りの建物は、テナントが入るわけでも人が住んでいるわけでもなく、ただ放棄されているようだった。建物の痛みは荒れるに任せた結果かと思ったが、進むうちにそうではないことに気付いた。小銃のものから迫撃砲で吹き飛ばされたものまで、大小さまざまな弾痕がそこら中の壁面に刻まれていた。大規模な市街地戦の痕跡だった。
「大通りから少し離れたらこれか……」
 シーナは思わず声を漏らした。カリンは無言だが、彼女にも思うところがあるのか、 レンガの塀のなれの果てをじっと見つめていた。
 なにか大きな部屋の一部だけ残ったような、二つの壁でできた角があった。その壁一面に、小銃の弾痕が無数に集中していた。シーナはそこに立たされ銃口を向けられた人々を幻視して、思わず目をそむけた。視線を落とした先の地面に、縦長に掘り返された跡があるような気がした。穴を掘るように、そこに横たわるように、銃を突きつけられる、人々の姿。掘り返され、埋められた跡が、ここにも、そこにも、一つや二つでなく、あたり一帯がそのような場所であるように思え――。
 風景にシーナたちの足取りが危うくなっても、少年の歩みは少しも乱れなかった。ただ少年に置いていかれないよう、周りの風景を意識しないよう努めて歩き続けて十分か二十分か、しばらく経ったとき、ひときわ大きい建物が現れた。
 損傷がひどく、崩壊した壁から中の階段が見える。一階一階の天井が高く、もとは豪奢な建物のようだった。だが壁の一面も残さず戦闘の跡が刻まれていて、この周辺でも屈指の激戦地だったことがありありと伝わってくる。それでシーナはぴんときた。ここは、何らかの勢力の拠点だったのだ。
 シーナもカリンも思わず足を止めてしまったが、少年との距離は思ったほど離れなかった。きもち足を早めて少年のあとを追いかけようとして、かつては建物高くに掲げられていたであろう、大きな看板が地面に落ちているのが見えた。シーナは、あちこち焼け焦げて土に汚れたその文字をなんとか読んだ。ルドノア人民放送。
 首都周辺で大規模な戦闘が起きたのは、十年前が最後のはずだ。だからこの痕跡はその十年前のもので間違いない。ということは、このあたりは十年間、まったく再開発の手が入らなかったということになる。それだけ忌み嫌われた土地になってしまったということだろうか。戦争の生々しい記憶を上書きするのでなく、ただ空白の領域としてアクセスすることを放棄する――記憶のシステムの健全性はそれで回復できる。だが、それはこの国か、あるいはこの街としての挙動だ。その構成要素である一人一人の人間が放棄と忘却を選択する――選択できるとは限らない。
 街に刻まれた戦闘の爪あとは変わらず続いていたが、人の気配、生活の痕跡がわずかに感じられた。ふと視線を感じて振り向くと、人影が瓦礫の陰に隠れるのがちらりと見えた。無人地帯を越えたのだ。一度彼らの存在を認識すると、その視線と気配は先へ進むほど濃くなっていく。息をひそめ、街が存在ごと忘れようとする区域に隠れ住む人々――ここをスラムと呼んでいいのか、シーナには分からなかった。
 気付いたときには、あたりの人通りはすっかりなくなっていた。もうこちらの存在を欺瞞する手段はない。少年がこちらの存在に気付いたなら、『子どもたち』につながる場所へは近づかないだろう。尾行は失敗だ――シーナがそれを認めようとしたとき、また大きな建物が姿を現した。
(これは……モスク、礼拝堂か?)
 この周辺のものより明らかに新しい建物だった。戦争の後に建てられたものだろう。先ほど見たルドノア人民放送の社屋と同じくらいの高さ、同じくらいの広さに見える。あちこちに施された装飾は華美というほどではないが、手がかかっているのはひと目で見て取れた。しかし、ここにも戦闘の痕跡が刻まれていた。正門のあたりの柱や壁に銃痕が刻まれているが、損傷は大きくない。ここでの戦闘は小規模なものだったようだ。
(終戦後にもここでは戦闘があった、ということ?)
 十年前に戦争が集結してからは、首都周辺で戦闘はほとんど起きていないはずだ。記録に残っているのは、すべて終戦から一年以内のものだった。これほどの礼拝堂ができたのは終戦から一年以上あとのことだろうから、ここで起きた戦闘は記録に残っていないのかもしれない。
 少年が、わずかな迷いも見せずに礼拝堂の中に入っていった。彼の本来のものなのか、あるいはシーナたちに情報を漏らさないための偽装なのかは分からないが、彼の目的地がここだったのははっきりした。今、少年を追って礼拝堂の中に入るか。この場はいったん引き返すか。あるいは使い魔だけ放って中の様子を窺うか。選択肢はいくつかあった。しかしシーナは、それより少年の行動にひっかかるものを感じた。
(まるで誘われた――いや)
「案内された、ということかしらね」
 同じ予想にいたったカリンの言葉に、シーナは頷いた。少年から尾行に気付いて行き先を変えたような素振りはまったく感じられなかった。だからこの場所が見られるのは構わない――それどころか、自分を尾行している者にここを見せたい、という意図まで感じられた。もちろんそれは、少年がシーナたちの尾行に気付いているとしたら、という仮定の上での推測だ。だがもしこの推測が正しいのなら、彼は自分たちがここに至るまでの道、その風景すらも見せたかった、ということも考えられる。だが、なんのために? シーナは、背筋にぞわりと走るものを感じた。
 危険を想像し、他の手段を検討しながらも、二人は誘われるまま少年のあとを追った。

 正門から中庭、エントランスから建物の中まで扉は全て壊されていて、二人は周囲の物を何一つ触れることなく少年を追いかけることができた。もう疑う余地はなかった。少年は紛れもなく、二人を誘導している。
 シーナは少年のあとを追いながら建物を観察した。どこか既視感があると思ったが、すぐに気付いた。大聖堂だ。大聖堂はもともと人間の信仰を利用するために既存の宗教文化を意図的に取り込んでいる。だから大聖堂が宗教施設に似るのは当然だ。シーナは自分にそう言いきかせながら、しかしここが大聖堂であることをなかば確信していた。ある部屋の前を通ったとき、その裏付けがえられた。
 その部屋は他の部屋と異なり、カードキーと生体認証の組み合わせでロックされていた。ドアは他のものと同じく破壊されていたが、元は厳重に警備された特別な部屋だったようだ。中を覗いて、その理由が分かった。
 そこは『雨の神』とほとんど同一仕様の、大聖堂の制御室だった。設置された機材にはどれも入念に銃弾を撃ちこまれ破壊されているが、合唱団員のバイタルサインを観察する装置、ホールに流し込むガスの制御盤、魔力発生の状態のモニタ機材、どれも『雨の神』と同じベンダーの製品だ。建物自体の外観、施された装飾だけを見れば教会の貴族たちが保有する大聖堂とは似ていないが、異なる文化が異なるディテールを要請しているだけで、機能と本質は同じということだ。

 シーナは戦慄に身体が震えるのを感じた。大聖堂は、その全てが教会――信仰委員会の管理下になければならない。それが今の世界の秩序だ。この施設はその機能において紛れもない大聖堂でありながら、自分は建設されていたことすら知らなかった。教会の大聖堂研究の頂点である礼拝技術部に所属し、主流派ではないにしてもある程度の地位にいる自分ですら、だ。教会が既定路線で大聖堂の研究・建設をおこなうなら、礼拝技術部が一切関与しない、シーナが噂にも聞かない、という事態は考えづらい。そうなれば、考えられるのは二つだ。教会が礼拝技術部を通さず秘密裏に大聖堂の研究・建設をしているのか、教会以外の組織が教会のものに準じる大聖堂を作ることができたか、だ。いずれにせよ、この施設はシーナの思う『世界の秩序』を根底から揺るがす存在だった。
 だが、そもそもそんな秩序は、伯爵が殺されたときに崩壊しているのだ。

 混乱した思考のまま、少年を追いかけて奥へ奥へ進む。ここが自分の知らない大聖堂であること、それを何者か――おそらくは『子どもたち』――が襲撃し破壊したことはおそらく間違いない。それをなんとか飲み込むと、シーナは先ほど見た制御室に不可解な点があったことに気付いた。ここを一つの大聖堂――巨大な魔力発生装置として魔術技師の目で見ると、制御室の機材はバランスが悪いのだ。モニタ装置から推測すると、ここは『雨の神』に匹敵する大魔力を発生できる。しかし、制御盤で流入できるガス量は『雨の神』よりずっと少ない。発生魔力からすると、合唱団に相当する人間を集めるホールも『雨の神』に近い大きさだろう。だからそのホールに流し込むガスも、相応の流量が必要になるはずだった。しかし実際は、『雨の神』の百分の一程度の流量なのだ。
 大聖堂は現在の魔力発生技術の最先端であり、その設計と建造にはこの分野に精通した魔術技師たちの参加が不可欠だ。だから例えバランスが悪いように感じようが、そのバランスはここを作った魔術技師たちの意図があるはず――シーナはそう考えた。ホールの構造か誘導用ガスの組成か、とにかく何かが『雨の神』のような現行の教会の大聖堂とは決定的に違うのだ。それこそがきっと、ここで行われていた研究の核心だ。

「ここは……?」
 広い部屋に出て、シーナは思わずそうつぶやいた。壁はコンクリートむき出し。床は排水口のように格子状に穴の空いた金属製。さらに、幅四メートル、高さ二メートルほどで奥行きは二十メートルもあろうかという大きな金属製の棚のようなものが、整然と並んで部屋全体を埋め尽くしている。これまで見た他の部屋とはまったく様子が違っていた。
「気をつけて」
 カリンが静かな声で告げた。いつの間にか少年の姿が見えなくなっていた。この部屋は大きな金属の棚のせいでいたるところに死角がある。なにか仕掛けてくるかもしれない。カリンは索敵用の使い魔を放ち、臨戦態勢に入った。シーナはカリンの背後をカバーしながら、しかし少年にそんな意図はないと確信していた。彼はわたしたちに、ここを見せようとしていたのだ。
 シーナはカリンの後ろについて、棚と棚の間をじりじりと進んだ。棚はちょうど人一人が横になって寝られるくらいの大きさの、奥行きの長い小部屋に細かく仕切られていた。棚の中は見るかぎりすべて空だったが、小部屋の一つ一つに小さなモニタがついていて、規格品として作られたもののようだ。大量のものを保管し、その出し入れを管理する――つまり、倉庫か。シーナはしかし、その推測にたどり着く前に直感的に連想したものがあった。蜂の巣。船室。監獄。あるいは、ブロイラーのケージ。
 シーナは自分のおぞましい予感を振り払おうとしながら、目ではその証拠を探し、すぐにそれを見つけてしまった。
「姫、見てください」
 シーナの指さす先を見て、カリンは絶句した。手枷か足枷か、金属製の拘束具が小部屋の中に落ちていた。拘束具からは鎖が伸び、小部屋の壁に繋がっている。拘束具と鎖はところどころ赤茶けているが、それが本当に錆なのかどうかは見ただけでは分からなかった。
「――この中に人間が繋がれていた、ということ?」
 シーナは頷いた。声が出なかった。
 これがこの大聖堂で行われていた実験の核心だろう。『雨の神』でいうところの聴衆を、この棚――ケージに入れて管理する。前近代的な部分の多いルドノア刑務所も、ここまでひどいところではないはずだ。どうやって人を集めていたのかは分からないが、これがルドノアの国内法に適うとは思えない。
 シーナは、『雨の神』のリーダーの少女を思い出した。想像の中で、シーナは彼女を抱きしめながら、背中ではその腕に拘束具をかけていた。

 だが、人間の信仰による魔力発生、それを大規模化・効率化した大聖堂の行き着く先が今目の前にあるような形になるのは、一つの必然だった。現状の構造では、『雨の神』の規模からさらに出力を上げるためにより多くの人間を使おうとしても、『神の御姿』の共有・維持が難しくなる。だから、収容する人間に対して外部からより強い手段で精神活動の深いところまで干渉する必要があるのだ。それがどの程度のものかはまだ検討段階だが、通常の身体活動ができるレベルでは難しいだろう、というのが現在の見通しだった。昏睡状態に近い人間を大量に管理する――そのための施設は、誰が、どんな組織が作ろうと、おそらくここに近い形になるだろう。
 しかし、現実には教会が――いや、礼拝技術部がそんな『次世代型大聖堂』を作ることはありえない。ここから先は法律的にも倫理的にも許されることではない、という一線を引いているからだ。そうシーナは考えた。
 それなら、ここを作ったものたちは、その一線の向こう側にいる――。
「ここは一体……」
「『プラント』――それがここの通称だよ」
 カリンが漏らしたつぶやきに、すぐ近くから答えがあった。少年が、棚の陰からゆっくりと姿を現した。
「よく見てくれ。『プラント』はカンダート伯爵の最大の遺産だからね」

 目を逸らしたカリンを見て、シーナは少年を睨みつけた。少年はシーナの視線を軽く笑って受け流した。
「どういう意味?」
「魔力の生産場。言葉通りだよ。非効率と冗長さと感傷を排除した、より完全な大聖堂。カンダート伯爵は、君たちの一歩先を歩いていたのさ」
 非効率と冗長さと感傷。穏やかに笑みを浮かべつつもそう言い切った少年の言葉には、しかし抑えきれない怒りと憎悪が滲んでいた。
「ルドノアは今も昔もカンダート伯爵の庭みたいなものだ。人身売買だろうが人体実験だろうが、庭の人間を使い、庭の中で外に漏れないようにやるかぎり、誰も気にはしない。それが君たちの倫理だ」
 かっとなって「そんなことはない」と言い返しそうになるのをこらえる。
「伯爵は、この国で虐殺が起きたとき、力を尽くして止めようとした。教会の植民地主義が気に入らないのは理解できるけれど、伯爵を恨むのはお門違いよ」
「ああ……あんた、シーナ=トーネルは殺されかかったところをカンダート伯爵に救われたんだったな」
 なんてことのない世間話のように言った少年に、シーナは総毛立った。カリンは教会の処刑者だから知られているのは当然だが、シーナは専門分野では名が知られていても、一介の魔術技師にすぎない。シーナを知っているということは、少年たちは本気で大聖堂を研究しているのだ。
「証拠ならこの先の執務室にある。伯爵を示す書類はいくらでもある」
 動揺するシーナをよそに、ついてこいよ、と少年は涼しい顔で続けた。直接こちらに危害を加える気があるようには見えず、シーナたちは距離を置いて少年の後ろを歩いた。
「考えてもみろよ。そもそも、伯爵以外の誰にこんなことができる?」
 少年の言葉に、シーナもカリンも答えることができなかった。
 棚の間を奥へ奥へと進むと、棚の列が途切れ、壁と扉が現れた。部屋の端に着いたのだ。
「そこだ」
 少年が視線とあごで扉を示した。シーナが震える足で前へ踏みだそうとすると、前触れもなく扉が開いた。
「もうおいででしたか」
 少年が扉の奥へ声をかけた。身構えるシーナたちの前に、複雑な刺繍の入ったローブ姿の人影が現れた。シーナの身体を大きな震えが走った。そのローブは、『子どもたち』の犯行声明でワーグが着ていたものだった。
「ワーグ……なの?」
 ローブの影が顔を覆っていた布に手をかけた。

 その瞬間、背後から放たれた魔力の矢の一群がシーナたちを襲った。シーナとカリン、ローブの影に迫った矢は、魔術道具に仕込んだ防壁が瞬時に展開し、受け止められた。しかしそれを漏れた矢の何本かは少年の近くに着弾し、その衝撃で少年は吹き飛ばされた。
「なに!?」
 振り返った先には、よく見知ったシルエットが部屋の電灯の逆光に浮かんでいた。細く長い手足に、鼻梁と頬、あごを形づくる鋭い輪郭。
「ひ、姫……?」
 カリンと全く同じ顔、姿の誰かが、棚の通路の向こうに立っていた。
 攻撃を受けたカリン――シーナと今までともに歩いてきた方のカリンの反応は素早かった。距離を詰めつつ指輪の一つに仕込んだ魔術を展開、魔力を圧縮した弾丸を生成し、襲撃者へ撃ちこむ。シンプルだが即応性の高い、強力な魔術だ。威力も先ほどの襲撃者の魔術に負けていない。しかし、襲撃者の防壁はその弾丸をあっけなく受け止めてしまった。カリンは舌打ちし、棚の間に飛び込んだ。その瞬間、襲撃者のより強烈な一撃がカリンが一瞬前までいたところを穿つ。初撃とは明らかに出力の違う、防壁ごと力ずくで相手を貫く一撃だった。
 高出力魔術の容赦のない応酬。シーナは圧倒されて身動きできなかったが、襲撃者もカリンを追いかけて並んだ棚の奥に姿を消したのを見て、少し落ち着きを取り戻した。襲撃者の魔術は複雑なものではないが、威力はすさまじい。莫大な魔力供給を受けていると考えるのが自然だった。つまり、襲撃者の背後には大聖堂がある。それもおそらく、複数の。
 整然と並んだ棚の向こうで見えないが、断続的に炸裂音や金属がひしゃげる音が響き、戦闘の激しさが伝わってくる。シーナは襲撃者の姿を思い出した。奴は、カリンと寸分違わぬ姿をしていた。考えられる答えは、もちろん義体だ。だとすれば、何者かがシーナの作ったカリンの義体を盗み出し、その義体と大聖堂を駆使して『子どもたち』の少年とシーナたちを襲った、ということになる。ごくり、とシーナの喉が無意識のうちに動いた。戦闘の最中だというのに、事態の深刻さに気が遠くなりそうだった。
 それでシーナは、戦闘の余波で吹き飛ばされた棚の一つが自分に向かって飛来してくるのに気付くことができなかった。

 ローブの影が視界の端で動いたかと思うと、シーナは思い切り突き飛ばされていた。シーナが地面に倒れこむより早く、弾丸のような速度で飛んできた鉄の棚が防壁を軽く破壊してローブの中の身体を一瞬で押しつぶし、部屋の壁に激突して耳障りな音を立てた。
 シーナはかぶりを振って起きあがった。ぐしゃぐしゃに潰れた棚の近くで、ローブを血まみれにした誰かが事切れていた。顔を隠していた布がすべり落ち、その下の顔が見えた。ワーグとは似ても似つかない青年だった。
「なぜ、わたしを助けた……?」
 ローブの青年は、間違いなく『子どもたち』のメンバーだった。なのに、どんな理由で教会の手先である自分を助けるのか。一言として言葉を交わす間もなく、彼はシーナを助けて死んでしまった。状況と展開が自分のキャパシティを超えている。シーナはただ呆然とするしかなかった。
 異臭とともにどこからか黒い煙が立ち込めてきた。額に汗の粒が浮いていて、全身の皮膚がヒリヒリとする。事態に気がつくまで、数秒かかった。襲撃者が火を付けたのだ。ここにあるものを葬るために。
 姫のそばへ行こうとしたが、足に力が入らなくて膝をついた。気配を感じて顔を上げると、姫と同じ顔の、しかし表情はまるで違う義体がシーナを見下ろしていた。ドレスは青白いエーテル液で汚れているが、その義体に損傷はない。姫の返り血だと気付いた瞬間、シーナの疲弊し混沌とした思考の中から、かすかに強い感情が生まれた。
「お前は誰だ……」
 襲撃者の操る義体はただの等身大の人形のようで、姫と同じ顔をしていてもその表情からは何の感情も読み取れなかった。
「目的はなんだ……」
 だが、人形――義体の本質は表情にはない。襲撃者は姫のような表情の操作をしないが、複数の大聖堂の力を奮うことができる。今では大聖堂への接続を制限されている姫より、この襲撃者のほうがより『姫』らしい――『傷つかない処刑者』らしいのではないか。
「姫の姿を騙るな!」
 シーナの叫びに、襲撃者はみじんも揺るがない。
「逃げて、シーナ……!」
 襲撃者の向こうに、ぼろぼろの棚によりかかったカリンが見えた。左足は大きくねじれ、左手はもぎ取られて義体内部の機構がむき出しになっていた。
 襲撃者ーー姫の義体を操っているのは、教会の人間以外ありえない。義体を盗み出すのも複数の大聖堂への接続を許可するのも、可能なのは教会内部の、それも権限の大きな人間だけだ。たとえば、信仰委員会のような。
 そして、伯爵が殺されて扱いかねる姫に、この理不尽な死の旅を科したのも信仰委員会だ。彼らが姫に与えた、父の仇を討て、ワーグを殺せという罰に、いっさいの正当性はない。ただ姫の死が求められているだけだ。だから、もし事情が変わって姫の存在が本当に許容できなくなれば、彼らはより直接的な手段を取るかもしれないーー。
 襲撃者を見上げた。これが彼らの答えなのだろうか。教会が、信仰委員会が欲しているのは、強力だが取り替えのきく、自分たちの力の象徴だ。力の象徴に表情はいらない。意思もいらない。彼らは、そういう『なにか』を彼ら自身の一部として、彼らの権力と自意識を拡張する一種の器官として得たいのだ。
 逃げる力はどこにもなかった。襲撃者がシーナに向けてかざした手に、大聖堂から供給された魔力が集中していく。姫に深手を負わせるほどの出力では、シーナは一撃も耐えられない。放たれれば間違いなく致命傷になる魔力の光を前にシーナは動けず、しかし教会の傲慢さに屈したくなくて、膝をついたまま襲撃者を睨みつけた。

 そのときだった。自動小銃の点射が襲撃者に浴びせられ、反応した防壁が銃弾を受け止めた。射手を探して振り返った襲撃者に、また別の方向から銃撃が加えられる。
 よく統制された部隊による攻撃だった。棚を遮蔽物に、恐らくは三方向からアサルトライフルで大口径の高速弾が切れ目なく浴びせられている。直撃弾はないが、襲撃者は強力な弾幕を凌ぐために防壁に集中していた。攻撃に回せる魔力は相当限られるはずだ。相手の動きを止め、攻撃に回す魔力を封じる銃撃。この部隊は、魔術師との戦闘に精通している――。しかし、そんなものが存在し目の前にいるということの意味を、今のシーナは理解することができない。
「燃えろ」
 絶え間ない銃声の中にあって、シーナには不思議とその声が聞こえた。フードを目深にかぶったローブの影――シーナを守って死んだ青年と同じものだ――が棚の奥から飛び出し、完全に足の止まった襲撃者に魔術を投射した。運動エネルギー弾の防御に特化しすぎた防壁の向こうで、姫と同じ姿をしたモノが激しい炎に包まれた。銃弾とはまったく異なる形質の攻撃に、襲撃者の対応が遅れている。
 床を跳ねる甲高い音とともに、なにか大きなボルトのようなものがシーナと襲撃者の前に転がってきた。正体を見極めようと自然と目で追った次の瞬間、爆音と閃光が炸裂した。スタングレネード。なにが起きたのか認識する間もなく、シーナの意識は沈んでいった。
 襲撃者が炎を無効化して反撃に転じる前にこの場を撤退しようと、ローブの影が部隊にすばやく指示を出す。しんがりが足止めに放った射撃のマズルフラッシュが、ローブの影がかぶったフードの奥を照らしだした。薄れゆく意識の中でシーナはその顔を見た。ワーグ=リフェルド。
「待って!」
 燃え落ちつつある聖堂に、カリンの叫びがひびいた。その声に胸を引き裂かれそうになりながらも、シーナは抗えず、完全に意識を失った。
 シーナたちの探していた『ルドノアの子どもたち』のリーダー、伯爵を殺した犯人であるワーグその人が、倒れたシーナを抱きかかえ、部隊を率いて戦場を離脱した。