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怪文書置き場

JNコンフィデンシャル 1/14

第一章 Slit Your Guts

1[小立 俊弘]

 水が口から鼻から入ってくる。息ができない。顔を上げられない。生暖かい手に首の後ろを押さえつけられ、おれはバスタブの冷たい水の中でもがいていた。

 水の中から引っ張り出され、咳きこみながらやめてくれ、といいかけたところでまたバスタブに沈められた。何が起こっているのか、なぜこんな目に遭っているのか分からなかった。窒息の恐怖が自分の貧相な身体から全力を引き出していたが、それでも縛られた両手のテープは引きちぎれないし、自由な両足もバスタブをめちゃくちゃに叩くだけだった。無理な運動が空気を浪費し、苦痛の中で意識が遠くなる。

 引き上げられ、数秒のあいだ呼吸を許されたかと思うと、また沈められる。それが三度か四度。それからやっと襲撃者は口を開いた。

「焼肉屋。食事券。全部話せ」

 なんのことだ、と聞き返そうとしてまた沈められた。焼肉屋。食事券。襲撃者の言葉から記憶を探ろうとするが、恐怖と混乱で頭が回らない。ただもう苦しいこと、痛いことは許して欲しかった。

 おれが暴れる気力をなくしたのに満足したのか、襲撃者はおれをバスタブから引き上げて浴室の床に仰向けで転がした。それで初めて襲撃者の姿が見えた。黒っぽいジャージにパーカー、目出し帽の男。そいつは身体をよじって水をはき出そうとするおれの胸をスニーカーで踏みつけながら、パーカーのポケットから紙を取り出して見せた。

ウィークリィ音雨 橙川遥と■■■■が熱愛交際!

2011-10-06 22:06:01

橙川遥(21)と■■■■■■3)、人気声優同士の熱愛交際が発覚した。

初のソロライブツアーの最■■■■公演を終えた橙川遥。

奇しくも同じ日の■■■■(日)、同じく横浜公演を終えた■■■■。

共に横浜でのライブを行った翌■■■の焼肉店には2人の姿があった。

この日■■■■■■■■■■とは、翌日の橙川のブログに載っている。

 

別の日には、都内の某■■■■■■2人で訪れる姿も見られた。

別の日の夜には、橙川の自宅マンシ■■■■■■で仲睦まじく帰宅する様子もあった。

■■は橙川の自宅マンションを頻繁に訪れているほか、6月には橙川が■■■■■■■■台をプライベートで観劇する様子も見られた。……

「これの話だ。全部話せ」

 そのプリントアウトを一目見て、例のブログの記事だと分かった。『ウィークリィ音雨』。それでさっきの質問と自分の記憶が急速に繋がりだす。水で冷えた身体の震えが酷くなった。

「おれのせいじゃない」

 なんとか絞り出した声が、ぶざまに震えていた。

「おれは関係ない。知らないんだ。そんなつもりじゃなかった」

 自分の口から次々と言い訳じみた言葉が出てくるが、どれも紛れもない事実だった。なにか助けてくれるものを探して視線を巡らせたが、いつもの狭苦しいワンルームの浴室にはなにもなかった。沈黙が恐くなって盗み見た目出し帽の奥の瞳が、風呂場の床に転がされてがたがた震えるおれを冷たく見下していた。

「全部話せ。お前がしたこと。お前が知っていることを」

 抵抗する気力などなかった。深呼吸し、思考を整理する。自分の後悔に、苦い、痛い記憶に向きあう覚悟をする。そしておれは、回想の暗い穴を下りていった。

 

「オービットSpheric Universe Experimentツアー横浜、おつかれっしたー! 乾杯!」

 グラスを打ち合い、ぐいっとビールを呷る。横浜公演終了後、俺と友人――サークルの後輩――はライブ会場近くの飲み屋で恒例の宴会を開いていた。

「新曲! よかった!」

「MCの遥と美菜子、いちゃいちゃしすぎだろ。普段からあんなんじゃねーの!?」

「楽屋で二人きりだったら……ほら! 緊張をほぐすわけですよ、お互いに!」

 店はありふれた安居酒屋でも、ライブの余韻が肴となれば最高の宴会だった。だがその日は、ささいなきっかけが具体的な行動を生んでしまった。

「お、生肉ありますよ。食いましょう、生肉」

「生肉! 食べたい!」

「むしろ食わせたい!」

 そのときおれは、一瞬、その欲望を実現させる方法を真剣に考えた。そしてすぐに、それは実現可能である、という結論に至ってしまった。

「そういうときのためのプレゼントボックスだな

「いや、食い物はさすがに無理でしょう」

「じゃあほら、お食事券とか」

「そうか、焼肉屋のお食事券」

「人数はどうしようか」

「四人分だと予定合わせづらいだろうな」

「じゃあ二人分に絞るか」

「二人分……あー、カレシと行ったりして」

 一種、会話に間が空いた。

「ま、遥が肉食えばそれでいいよ。誰と食おうが、まあ俺らの知ったところではない。知れるところじゃない」

「まったくもって。じゃあそれで行きましょう」

 そしておれたちは、オービットの次の公演で食事券をプレゼントボックスに入れた――

 

「食事券はワナだったんだろ」

「ちがう」

 襲撃者の目が怒りをぶつける先を求めていた。

「二人分の食事券でスキャンダルのお膳立てをしたな。相手を誘い出すのが目的だったんだろ」

「ちがう」

「その友人も協力者か。お前が計画し、そいつが尾行して証拠を押さえる。そういう手はずだったんだろ」

 おれを責めながら、襲撃者はおれの胸を踏みつける足に力を込めた。胸が苦しくなって、おれは屠殺場の家畜のようにわめきちらした。

「ちがう。ちがう。ちがう。おれは、遥のファンだ。遥のことが好きなんだ。遥をおとしめたりするはずないだろ!」

「『好き』? どういう意味だ? 所有したいってことか? 支配したいってことか? お前のような人間が口にする「好き」とか「愛」とか、気持ち悪いんだよ。じゃあこういうのはどうだ。お前は愛する遥が、大好きなオービットの誰かと行くことを期待していた。だが実際にその場に現れたのはクソ男だった。お前は裏切られた。ちくしょう、遥は非処女確定だ! それでお前は遥に失望して、中古女に復讐しようとした。……気持ち悪いんだよ、お前」

「ちがう、おれはそんなことしてない。そんなこと思わない。おれは、遥が大事に思う人なら、カレシと行ってもいいと思ったんだ。本当だ」

「なら証明してみせろ!」

 襲撃者がなにか棒状のものを奮っておれの腹に叩きつけた。金属がぶつかり合う音と、重く鈍い衝撃。息が詰まった。

「それに本当だとしても、例えば今お前が留年してても、大学に落ちていても、何百万も借金してても、なにかの病気で死にかけていても、親にぶん殴られながらでも言えるか。『カレシと行ってもいい』だなんて」

 衝撃が激痛に変わりはじめた。もだえるおれを、襲撃者はさらに言葉で打擲した。

「言えないだろうよ。お前はただ運がいいだけだ。運がいいから、そんな達観ぶって偉そうに綺麗事をほざけるんだ。お前は、自分は頭のいかれた処女厨とは違う、そう思ってるんだろ。同じだよ。お前も一皮むけばあのキチガイどもとおんなじなんだ」

 苦痛と情けなさと対象のよく分からない恨みで涙があふれてきた。襲撃者の言っていることはよく飲み込めなかったが、突き刺さっているのは確かだった。それを自覚すると、今度は悔しさがわき上がってきた。これ以上の醜態を晒したくない一心で、漏れそうになった嗚咽を押さえ込んで叫んだ。

「うるさい! お前はどうなんだよ。他人事みたいにいいやがって。それはお前自身についても言えるんじゃないのか」

 覚悟していた罵倒も殴打もなかった。いぶかしんで伺った目出し帽の奥の瞳からは、いつの間にか激情が消えていた。襲撃者はおれから足を降ろすと、少し間を置いて切り出した。

「その通りだ。これはおれがやったわけじゃない。お前が引き金だったわけでもないかもしれない。でも、おれたちのせいなんだよ。おれたちが起こしていることなんだ。こういうことは、おれたちが始末をつけなきゃ」

 思いのほか静かで切実な言葉に虚を突かれ、こらえられなくなって嗚咽が漏れだした。「こんなつもりじゃなかった。おれは、どんな形であれ遥をさらし者になんてしたくなかった」

 おれは泣きながらもう一度訴えていた。

「計画したわけじゃない、そんなつもりじゃなかったとして、お前が遥に屈辱への切符を渡したのは事実だろう。償え。遥が好きだっていうのが薄汚い自己満足じゃないっていうなら、おれに協力しろ。彼女たちを傷つけたやつを見つける。そいつにも償わせる」

 手が差し伸べられた。手の先の襲撃者の瞳に、暴力に屈する自分、脅しに屈する自分、同情を乞う自分が見えた。

 おれはその手を握りかえした。怯えながら。憎みながら。襲撃者を。盗撮者を。自分自身を。