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怪文書置き場

STBTYR 1-2

2.

 若い姿の両親が、子供の頃の、知恵も力もない頃のシーナを見下ろしていた。
「正直に、誇りを持って生きなさい」
「本家の連中はルノ族の誇りを捨て、自分を偽って生きているの」
「お前はそうなってはダメだよ」
 家の食卓で、暖炉の前で、小さな庭で、近所の路地で、賑わう市場で、父が、母が、そんな言葉を何度も何度もシーナに言った。正しく生きる。清く生きる。偽りなく生きる。貧しくとも、汚い金は使わない。本家の手は借りない。
 でも、なんで? シーナの幼い疑問に答えた両親の言葉が、彼女の一番古い記憶だった。
「神さまはいつもわたしたちを見ておられる」
「神さまはいつもわたしたちを守ってくださるのよ」
 神さまがいるから。神さまが見ているから。神さまが守ってくれるから。それが彼女の抱いたあらゆる疑問への、父と母の答えだった。神さま。それ以上の説明を必要としない、究極の答え。それが分かってから、シーナは二人の言葉にただ「はい」とだけ答えるようになった。

「お前は他のルノ族とは違う、特別な存在だ。お前には、長年ノア族に仕えたベクリー家の血が流れている。他のルノ族をただし導く者の一人だ」
 柱の陰、路地の奥まったところ、市場の物陰から、おじさん——父の兄、とシーナは記憶している——が顔を出してはそう言った。ベクリー家から絶縁された父の目を盗み、おじさんはことあるごとにシーナの前に現れては、シーナをベクリー家の一員として「教育」していた。お前を不当な扱いから解放してやる、本来いるべきところへ返してやる、と。なぜ、と聞くシーナに、おじさんはそれがベクリー家の伝統だ、宿命だ、と言った。その答えに、そうか、とシーナは納得した。それがおじさんの「神さま」なのだ。だからシーナは、やはり「はい」と答えるだけだった。

「裏切り者め」
「ルノの恥さらしめ」
 事実とは異なるが、こんな言葉が投げかけられるときはいつもまばゆい夕日の中だった、とシーナは記憶している。大勢の長い影たちが、嫌悪をむき出しにした目でシーナを、シーナの家族を、おじさんの家族をなじる。影たちの中には子供がいた。大人も。老人も。裏切り者、裏切り者、となじる彼らの輪が小さくなり、シーナの家を囲む。
 気付くとそこは、「本家」とシーナの両親やおじさんが呼ぶ屋敷のロビーだった。大きな壁の前に、父が、母が、おじさんが、ぼんやりとした姿の、ただ存在するということしかシーナの知らない父の両親が、おばさんが、いとこたちが並んで立たされている。彼らの顔なんてシーナは知らないのに、俯いた顔が恐怖に歪んでいるのが彼女には分かる。彼女の家族、親類の前に立つ影たちの手には、鉈と斧と小銃がある。現実の過去においてその出来事がこのように進んだかは分からない。シーナはその場にはいなかったから、この光景は全て、何年もあとに現場の写真を見たシーナの想像で構成されている。影たちが彼女の家族に銃を向け、引き金を引き、鉈を、斧を振り下ろしたとき、シーナ自身はそのとき実際にその場にいたように、学校の教室にいた。
 その部屋には学校中のノアが集められて、武器を持った影たちによって閉じ込められている。ノアの大人たちは怯える子供たちをなだめようとしながら、しかし彼ら自身も怯えきっている。シーナは自分より六つほど幼い女の子の手を握っている。その子はシーナの近所に住んでいるノアであり、シーナはその子のことを可愛らしい妹のように思っている。シーナは、そこに閉じ込められたただ一人のルノ族だった。
 影たちが教室に入ってくる。手を振り回し、怒鳴りつけ、ノアたちとシーナを壁に並ばせる。子供たちが泣き叫ぶ。大人が震える声で命乞いをする。シーナは手を繋いでいる女の子を助けたいが、なにもできない。恐怖と無力感で押しつぶされそうになって女の子を見る。女の子もシーナを見上げている。しかし目があったそのとき、その子は、震える声で歌い始めた。
 影が黙れと叫ぶ。銃床で女の子を殴る。そのとき、背広姿の男――カンダート伯爵だ――が教室に駆け込んできた。男は影たちに何か命令しながら彼らに割り込んでシーナの手を取ると、そこから連れだした。殴られた女の子は倒れたまま顔を上げ、シーナに何か伝えようとする。しかしシーナには、女の子がどんな顔をしているのか分からない。現実でもシーナは振り返るのが恐くてその顔を見ていなかった。
 そしてシーナが後にした教室の中で、銃声が長く響いた。シーナは手を引かれるままに学校の外に出ながら、恐怖で叫ばないように歯を食いしばっていた。

「——!」
 声にならない悲鳴を上げて、今、大人のシーナが目を覚ました。もちろんそこはルドノア共和国ではなく、サンディエゴのマンションの五階、シーナの自宅だ。夢から、己の記憶から逃れようと、一秒でも早く呼吸が落ち着くのを祈りながらベッドから這い出す。あの国を離れてから何度も見た悪夢だった。虐殺そのものからはカンダート伯爵の力で逃れることができても、彼女の両親や親族がそうでなかったように、シーナの心もやはりあの国の惨劇に囚われていた。
 シーナは、ルドノア共和国のルノ族の名家、ベクリー家の血筋に生まれた。ベクリー家は代々ノア族の支配層に仕えて利益を得てきた一族だ。一族は被支配層のルノでありながら、長年ノアの有力者から様々な便宜を受け、他のルノたちから恨みを買っていた。そんな一族のあり方を嫌ったシーナの両親は本家から距離を置き、トーネルの姓でありふれたルノの一家として生活することを選んだ。しかしルノたちの憎悪が爆発してルドノア中でノア族の虐殺が起こったとき、シーナの両親も結局ルノ族の裏切り者として、本家の人間ともども暴徒に殺されてしまった。その時虐殺の吹き荒れるルドノアを教会の権力で介入し、ぎりぎりのところでシーナを救ってくれたのが、ベクリー家の一番の交易相手であるカンダート伯爵だった。そうしてシーナはベクリー家ただ一人の生き残りになった。

 キッチンで冷水を飲んで、それからシャワーを浴びた。べったりとまとわりついた恐怖と不安は、それでも落ちない。空腹感はあったが、何も食べる気にならなかった。七時間ほどたっぷり睡眠を取ったというのに、ラボで仮眠したときのほどにも疲労が回復していない。何でもいいから少しでも胃に入れないと、と義務感じみた思いでコーヒーを淹れる。しかし固形物はクッキーを二つ食べるのが精一杯だった。シーナは食事を諦めて、さっさとラボに行くことにした。
 部屋着を脱ぎ捨ててクローゼットを開く。そこでシーナは一瞬めまいを感じた。普段着のカジュアルな服。何の変哲もないパンツスーツ。ひと通り揃えた、というだけの礼服。ラボの支給品の白衣。教会の人間としての正装である修道服。自分がなにものであるか宣言せよ。自己を規定せよ。そう命令された気がした。誰にか? もちろん、自分自身に、だ。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。見慣れた自分のワードローブに動揺することはない。いつもやっていることだ。考えすぎるな。惰性に身を任せろ。
 シーナは教会の一員であっても、魔術道具メーカーに端を発する技術部門の研究員だ。教会に吸収されたあとでもラボの流儀はメーカー時代と変わらず、カジュアルな服装が許されている。普段通りだ、と自分に言い聞かせながら、シーナは小奇麗なジーンズと無地のブラウスを取り上げた。今日は来客の予定は入っていない。予備の白衣と修道服はラボにもあるから、もし必要な事態になればラボで着替えればいい。そう考えると気分も少し落ち着いてきた。とにかく「選択」を遂行したことで、漠然としていた不安と恐怖が現実に対処可能な問題の一つになった気がした。
 手早く身支度を整えながらも、シーナはその手順の一つ一つを通してこの国に来てからの日々を振り返っていた。カンダート伯爵はルドノアから出国させたシーナにこの国の国籍を与えると、すぐに学校に入れてくれた。シーナはこの国では珍しくもないアウトサイダーの一人として、アウトサイダーなりに馴染んだ。両親と叔父と隣人たちに囲まれていたときと比べて、彼女の世界は格段にシンプルになった。誰も彼女を非・多数派の一人、あるいは伯爵に拾われた難民の子供の一人、という以上の扱いはしなかったからだ。無害な無関心と伯爵の厚い支援によって、彼女はまずまず品行方正、まずまず優秀な学生として成長した。そして今から十年前、彼女が十六歳のとき、彼女の人生の第二の転機が訪れた。カリン=カンダート。伯爵の義理の娘、教会最強の処刑人、そしてシーナが「姫」と呼んで慕うことになる、一人の少女との出会いだった。
 カリンと出会い、シーナは彼女の姫君のため、魔術——当時はまだ教会の支配力も小さく、教会以外の人間からは軽んじられた分野だった——に己の能力すべてを捧げると心に決め、大学へ進学した。彼女は二十一歳で博士号を取得し、共同研究先であるシノプティック・インフォシス——のちにその魔術応用部門がメイガス・マギテックとして独立し、二年前に教会に吸収される——の研究員として採用された。

 ラボはマンションから車で三十分ほど郊外へ走ったところにある。マンションの地下ガレージを出て人口密集地を抜けるまで、五分ほど。開けた幹線道路に入ったところで周囲の車がまばらになった。シーナは一気にアクセルを踏み込み、愛車に鞭を入れた。エンジンにより多くのガソリンと空気が押し込まれ、それを資源にして回転数が、速度が跳ね上がる。シーナの愛車は、今では珍しくなった、内燃機関のみを動力とするドイツ製のスポーツカーだ。市場では希少な趣味性の高い車種であり、同僚やマンションの隣人にはしばしば奇異の目を向けられた。しかしそれも彼女の魔術道具の研究者という肩書から連想される異常性の現れとして、むしろ容易に納得のいくものと受け止められていた。
 法定速度を大きく超えて巡航しながら、ときおり先行車に追いついては愛車の運動性能を発揮して追い越す。気付けば五十キロほど走り、ラボはすぐ近くに迫っていた。幹線道路を降りて速度を落としたとき、シーナは自分がだいぶ持ち直していることに気付いた。
 通常の業務時間まであと一時間ほどあった。ラボは自分の足音がうるさく感じるほど閑散としている。ドライブで昂った気分を鎮めながら、とにかくラボに来たのは正解だったな、と思った。まだいくぶん神経過敏だが、先ほどまでの不安感は消えていた。
 雑然とした共用の実験スペースを抜けた奥にある部屋の一つが、シーナに割り当てられた研究室だった。デスクは大量の紙の書類と電子ペーパーに埋もれている。不在の間に新しい書類がさらに積まれていた。それを上から手に取って確認していく。依頼した実験データのプリントアウト――結果が予想からずれている、つまり未知のパラメータが潜んでいるということだ。その報告書――内容の乏しさに投入人員の不足が露呈している。追加の人員を確保しなければなるまい。実験用具の広告――代わり映えしない。これはゴミ箱へ直行。回覧板――レクリエーションの誘いだが、いつも通り出欠表の不参加に○をつける。実験動物の納入書――ラットが二百匹に羊が五十頭、ラットはラボに、羊は現場に納入済み。新たな研究成果のための新たな資源だ。供給された予算と権限という資源を消費して成果というエネルギーを生み出し、彼女と彼女の研究は前進する。

 シーナのラボの中での立ち位置は、他の同僚とは大きく違う。予算や人員に対する権限は大きいが、リーダーとして研究チームを率いているわけでも、チームの一員として管理されているわけでもない。マリア=満月――研究所の上位組織である教会の礼拝技術部のボス直属、専任研究員。それが彼女の肩書だった。
「あなたには、一人でわたしの指示した研究と調査をやってもらいます。ただし、内容は一級の機密とします。通常の機密範囲に加えて、ラボの人間、教会の人間に一切漏らしてはいけません」
 一年ほど前、引き抜きで礼拝技術部付になったシーナにマリアが言ったことだった。
「評価してもらえるのは嬉しいですが、わたし一人でできることには限界がありますよ。こんな条件でろくな研究成果が上がるとお思いで?」
「予算と人事には十分な権限を与えます。手足にする人間は、相互に関連の薄い者を使ってこまめに入れ替えて使いなさい」
 反発したシーナにマリアはそう言った。マリアの徹底した秘密主義に不満がないわけではなかったが、マリアの命令するテーマはシーナにとってもスリリングだったし、裁量の拡大も大歓迎だった。以来シーナはマリアの私兵として動き、その秘密主義と権限の大きさから一部の同僚たちの反感を買うことになる。しかしそれが気にならないほど、シーナは今の仕事に満足していた。

 部屋の中央、作業台の上に、彼女の姫、カリンが横たわっていた。タレット少佐の攻撃で右腕をもぎ取られた、カリンの操っていた義体だ。専任研究員になってから、カリンの義体の管理もシーナの仕事になった。引き抜きを受けたときにさして期待せずに申し出たのだが、マリアはあっさりと了承してくれた。今思えば、リクルート時の調査で織り込み済みだったのかもしれない。経済的にも法律的にもシーナの後ろ盾はカンダート伯爵であり、カリンは伯爵の義理の娘だ。シーナと姫の繋がりは、たとえ隠そうとしたところで公的機関の書類と共同体の制度が伯爵を通していくらでも証明してくれる。
 シーナは手を伸ばし、カリンの頬に――義体の頬にそっと触れた。合成素材の皮膚が生き物とは明らかに違う冷たさを返してくる。シーナはその冷たさに安らぐものを
感じながら、鼻梁、まぶた、唇と指先でそっとそのラインをなぞった。姫自身は今、彼女の城の地下で眠っているか、予備の義体や普通の人形を使っているか、使用人の一人でも操っているかしていて、この義体と接続していない。だからこの目の前の義体という存在は、今はあらゆる意味で『カリンそのもの』ではなかった。
 義体は外観も構造も人体を模しているが、カリンの魔術なしでただ横たわっているだけだと、人間と似た形であることでかえって不自然さが目立った。義体自体には自身を駆動する動力がない――人形としては精巧だが、しょせんカリンの魔術を糸とした操り人形でしかない――から、自分を支える力を失った人体、つまり死体に近い。しかし脱力の仕方、重力への逆らい方に、どこか人体とは違うものであるという違和感があった。それは触れたときの感触、温度にも言える。目で見た感覚のまま、ヒトと、同族と、少女と思ってそれに触れると、その予断は完璧に否定されるのだ。似ているようで、決定的に違う。それが彼女にとってのカリンだった。そしてシーナは、そのことにこそ安らぎを感じていた。

 シーナは義体の管理システムに自己診断を命じた。即座に応答が返ってくる。中規模の異常――右上腕から先のフレーム、エーテル循環網から応答なし。ユニット制御系は右腕の主系統が応答なし。その他の部位は正常値を返している。異常は物理的に破壊された右腕周辺だけのようだ。右上腕は完全に欠損しているから予備パーツに交換するとして、右腕の被害は分解してみなければ正確な状況は分からないな。シーナがそう判断して、右腕の分解にとりかかろうとしたときだった。
《礼拝技術部、マリア=満月様からメッセージです》
 デスクの端末からの通知だった。他の人間からなら端末にメッセージを読み上げさせるが、相手がマリアでは誰かに聞かれるわけにはいかない。ため息をついて作業を中断し、デスクでメッセージを読む。建設中の大聖堂「海の神」でトラブル発生、現場で対応せよ――最優先で。大聖堂はシーナの一番の専門領域であり、この命令は研究者として本来の仕事といえた。マリアの命令は、いつも丁寧な表現でその要求に一切の譲歩と妥協を許さない。義体の修理は後回しにせざるを得なかった。
 始業五分前の鐘が鳴った。いつの間にか人の気配が増えていて、ラボは普段の喧騒を取り戻しつつあった。