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怪文書置き場

STBTYR 1-1

1.
 ライフル弾のいくつかが目標を逸れてシーナ=トーネルへと襲いかかり、彼女のすぐ近くで甲高い音とともに弾き返された。彼女の身に付けたブレスレットに施された反応性防壁(リアクティブシールド)の呪文が発動し、彼女を弾丸から守ったのだ。シーナは防壁の発動によって魔力を引き出されるときの疲労を予期し、わずかに身をこわばらせた。しかし数秒経っても、目眩も虚脱感も彼女を襲わなかった。ぜんぜん慣れないな、とシーナは思う。防壁を発動させたのは、彼女の接続している大聖堂、『其は巨人なり』から供給された魔力だ。魔術に携わるものとしては人並み程度の魔力量しか持たない彼女でも、大聖堂の支援があれば運動エネルギーの大きなライフル弾もやすやすと防御できる。今の彼女は大聖堂という巨大な力に支えられ、守られていた。しかしそのことは、彼女にいくばくかの安心感も優越感ももたらしてくれなかった。
「わたしたちの用があるのはジョン=タレット少佐だけよ。下がりなさい」
 ライフル弾の目標だった豪奢なドレスの少女——カリン=カンダートが無感情に告げた。何丁ものライフルの斉射を受けて傷ひとつ受けず、向けられた民兵たちの殺意にまるで動じるところのない彼女は、教会がタレット少佐に差し向けた処刑者だった。
 少佐が隣国の教会支部を襲撃し、信徒八人と司祭を殺したのは二日前のことだった。周辺国の教会支部は直下の実行部隊による報復を図り、失敗すること二回。見かねた教会本部は、教会がかかえる最強の処刑者、『人形遣い』カリン=カンダートを派遣した。タレット少佐がこの崩壊し放棄されたモスクに潜伏していることは、教会本部が所有する偵察衛星と使い魔——魔力で動く一種のロボットだ——で容易に掴むことができた。その上で通常戦力でなくカリンを差し向けたのは、教会が処刑者とその魔術によって力を誇示することを望んだからだった、
 カリンは民兵たちが展開するロビーをゆっくりと進んだ。彼女に恐怖した民兵たちが再びライフルを乱射し、弾痕だらけの石の床や壁に新たな弾痕を穿っていく。しかし弾丸飛び交う戦場のさなかにあっても、カリンのドレスはそよ風を思わせるほども靡かない。彼女に殺到する弾丸は全て彼女の前で停止すると、重力に従って地面に落ちていた。シーナと同じ反応性防壁だが、周囲への影響を最小限に抑えるため対象のエネルギーを的確に奪う制御を組み込んだ、より高度な呪文の防壁だ。消費する魔力も一方的な斥力でただ弾き返すシーナのものよりずっと多い。この呪文は、魔力量に恵まれ、戦うための魔術を極めたカリンのための魔術として、魔術技師(スペル・アーキテクト)たるシーナがその指輪に埋め込んだものだった。シーナは、彼女の姫君——カリンの静謐な美しさが暴力の嵐によってより引き立つさまを想像しながら呪文を設計したが、今まさに思い描いた通りの風景を前にして、そこが戦場であることを忘れて見惚れた。
 弾倉一つ分の弾丸を撃ちこんでも少女一人の足を止められないことに混乱した民兵たちが、現地語でなにか叫んでいた。カリンは彼らがまだ戦意を失っていないことにいらだちながら、しかし気にすることなく進んだ。数メートルの距離まで近寄ってきた彼女に恐怖が頂点に達した民兵の一人が、カリンに向かって弾切れのライフルを振り上げ……そしてそれを振り下ろすことなく絶命していた。その胸は、いつの間にかカリンの手の中に現れた銀色の剣で貫かれていた。
「下がりなさい、と言ったはずよ」
 カリンが陰鬱なつぶやきとともに死んだ民兵から剣を引き抜いた。剣先の軌跡を追いかけた血の雫が、彼女の頬に、ドレスにかかる。剣は防壁と同じくシーナが作った魔術道具の一つであり、指輪の一つが変形したものだ。
 死体が石畳に倒れるのを引き金に、硬直していた民兵たちが一斉に攻撃が再開した。しかし民兵が振り回すライフルは、魔術で超感覚を得ているカリンには遅すぎる。戦うというよりドレスの豊かなドレープを見せつけるような動きで避け、反撃する。魔力を込められたカリンの剣は、彼女の細い腕と小さな手にあって人間の肉体を防弾装備ごとやすやすと切り裂く。殴りかかった三人の民兵は、カリンと一合と打ち合うこともなく一太刀のうちに切り伏せられていた。ライフルの弾倉を交換しようとした二人も、一人は装填する間もなく逆袈裟に斬られ、もう一人も向けられる銃口を避けるように回り込む足捌きからの突きの一撃に心臓を貫かれた。
「行くわよ」
 銃声が失せつかの間の静けさが訪れた廃墟のモスクに、シーナを誘うカリンの声が響いた。

 二人は少佐を追ってモスクを進んだ。対象の位置は、シーナの放った使い魔が捕捉・追跡して完全に把握している。一階の敵は先ほどのロビーの六人だけだったらしい。少佐は下が壊滅したことを把握したのか、上階の一室で待ち構えることにしたようだった。
 隠密行動を取るつもりのない二人に対し、階段で、廊下の奥で民兵たちが待ち伏せていた。しかし彼らの武装はカリンたちの脅威にはならない。二人は弾幕を向かい風ほども気にすることなく上階を目指した。カリンは剣のリーチまで攻撃を止めなかった民兵、挟み撃ちにして背後のシーナを狙う民兵は容赦なく倒し、逃げ出したものは追撃しなかった。
 少佐の潜む階に到着した二人を、傾きはじめた太陽の光が照らす。モスクの損傷は上の階ほどひどくなっていて、天井はその多くが崩れ落ちていた。奥の部屋です、と使い魔と交信していたシーナがカリンの後ろからそこを指さそうとして、逆光の眩しさに思わず顔を伏せた。瞼の裏に、カリンの首筋と肩、背中にかけた滑らかなラインがドレスを透けて焼き付いていた。シーナの声に少し振り向いたその横顔は、赤く染まりはじめた異国の夕空を切り裂くような輪郭ばかりあざやかで、表情は強烈な光が生んだ濃い影の中に沈んでいる。シーナは、ああ、姫、と心のなかだけで呼びかけた。
「子供がいる」
 カリンがつぶやいた。シーナは自分の身体が緊張で強張るのを感じた。それは銃口を向けられ、弾丸がすぐそこで弾かれたときよりずっと重く冷たかった。

 その部屋はほとんど元の形を維持しておらず、床の半分ほどが崩れ、そこから階下の石床が見えた。少佐はその部屋で三人の子供とともに二人を待ち構えていた。汚れ傷んだ野戦服が、額に、頬に刻まれた傷痕が、戦場そのものを思い起こさせる男だった。その目は長年の戦いで擦り切れたような憎悪と焦燥に鈍く燃えていた。

「止まれよ、教会の犬ども」
 少佐は、大きなナイフと一人の子供の手を握って立っていた。まだ十歳にもなっていないだろうその子は目隠しをされ、枷をはめられた両足の片方は石の床に、もう片方はぱくりと口を開いた床の穴の上で頼りなく揺れていた。その高さは数十メートル。この高さから下の石畳に落ちれば、まず命は助からない。
「動いたら、こいつを落とす。こいつらはみんな死ぬ。分かるな」
 もう二人の子供も、手を握られた子供のすぐ側で目隠しと手枷足枷を嵌められて立っていた。足枷からは太い鎖が伸び、忌まわしい因習のように三人の子供を一つに結びつけていた。
 シーナは息を飲んだ。あの男が手を離せば、三人の子供が死ぬ。少佐との——そして子供たちとの距離は、ざっと十メートル以上。この距離では、例え少佐を狙撃しても子供たちは助けられない。
「子供を解放しなさい」
 カリンがあくまで無感情な声で命令した。この場を支配しているのはわたしだ、といわんばかりの態度。
「お断りだよ、お前らが消えるまではな」
 カリンが言い返さないのを見て、少佐が嘲笑した。
「自分たちの教会が他所の国の人間を何百何千と殺すのは構わないが、目の前で子供が死ぬのはいやだ、ってことか? 教会の処刑者サマも俗っぽい感情をお持ちで嬉しいね。いや、嘘じゃないぜ、本当だ!」
 少佐が笑いながら子供の手を揺すった。やせぎすで細い木の枝のようなその子の腕が、されるがままに乱暴にしなる。
 わたしたちにあの子供らを助ける義理はない——シーナの冷静な部分はそう告げていた。その言葉に心の耳を傾けると、自分の思考ながらも嫌悪せずにいられないような考えが次々と溢れてきた。わたしたちにはどうしようもない。子供たちの命運はあのテロリストに捕まった時点で尽きていたのだ。いや、そもそもこんな内戦の絶えない国に生まれた時点で……。
 子供たちは目隠しされて状況は分からないが、雰囲気は伝わってしまうのだろう、口元が泣き声を抑えているかのように震えているのが見えた。
「そうだ、動くな」
 少佐がナイフをカリンに向けると、巨大な魔力がその切っ先に発生した。紛れもない魔術攻撃の兆候。ただの兵士であるはずの少佐が魔術を使う? 想定外の事態に、シーナは凍りついて動けない。だがカリンは、姫と呼ばれドレスを纏っていても処刑者であり、戦士だった。カリンがとっさに身をよじったその瞬間、魔力の槍が放たれて十数メートルを一直線に灼いた。その直線上にあったカリンの右腕が魔力の奔流に喰われ消し飛ぶ。
「姫!」
 カリンは攻撃の余波と片腕を失くした衝撃によろめきながらも、無事な方の手で断面を押さえて少佐を見返した。その姿に……その光景に、今度はタレット少佐が衝撃を受けていた。
「なに……? お前、人間じゃないのか!?」
 ぽたぽたと青い滴が落ち、染みこんだ石床が黒く湿る。魔力が喰いちぎったその傷口からは骨を模したセラミックのフレームが覗き、血液のようにその身体を巡るエーテル液が漏れていた。
「そうか、それで『人形遣い』ということか……!」
 魔力と親和性の高い精錬物を素材とし、現在の技術でできうる限り人体を模した、極限まで精巧な人間のレプリカ。それがカリンの操る『人形』、義体だった。
「おい、俺はお人形なんかに用はないぞ。お前、出てこいよ。本当のお前、生身のお前だ。近くにいるんだろ?」
 少佐が先ほどの動揺を隠すように、シーナたちを努めて見下すように言った。だがその取り繕った反応に、シーナは後ろ暗い悦びを掻き立てられるのを感じた。
「まさか。姫が戦場になどお出でになるわけがないでしょうが」
 シーナが抑えきれない興奮とともに吐き捨てた。少佐の卑劣さへの怒りと、この男が彼女の姫君をまるで理解できていないことへの優越感がシーナを駆動していた。
「お前ごときの処刑に、わざわざ姫が御手を汚すこともない。人形で十分よ」
 本物の姫――姫の本体、本当の身体は、遠く姫の城の地下深くで何重にも守られている。姫はそこから魔術でこの義体を動かし、教会の敵を処刑するのだ。実際に敵と戦うのは義体だから、壊れても交換が効くし、姫自身に危険が及ぶこともない。自分が傷つくことを恐れずに戦うことができる。
「ほう、じゃあこいつらにも見せてやれ! そのぶざまな姿をよ!」
 少佐は油断なくこちらを睨みながら、片手で乱暴に手を掴んでいた子供の目隠しをもぎ取った。目隠しの跡が顔に赤く残ったその子の瞳が、姫を——失くした片腕から青い血を流す姫の姿を捉えた。
 その瞬間カリンもその子の目を見返すと、自身を特徴付け、最も得意とする魔術を行使した。

 手を握られていた子供が軽く足を振ったかと思うと、その反動で身体を縮め、自分の手を掴んでいた少佐の左腕をひねった。たまらず手を離した彼が事態を理解する前に、手枷されたままの両手でナイフを奪って、そのまま少佐の胸に柄まで深々と突き刺した。人質として無力な存在とみなしていた子供の、鮮やかなまでに見事な逆襲。少佐は驚愕に目を見開き、胸のナイフを見つめた。
「な、に?」
 少佐が弱々しくよろめき、信じられないという表情で自分を刺した子供を見た。一瞬前まで人質だったその子供は突き立てたナイフを離すと、処刑者のように無感情のまま、少佐を穴に突き落とした。

 カリンが魔術を解いた。子供はうたた寝から目覚めたように身体を震わせると、ついさっきまで自分たちを虐げていた男が消えていることに困惑して周囲を見渡した。そして枷をはめられたままの自分の両手が返り血に汚れていること、男が下の階の石床の上で血まみれで倒れていることに気付いた。その子はただ無言で、自分の両手と男の死体を見つめていた。
 カリンの操作魔術だった。義体を操るように子供の身体を操ったのだ。子供が眠るように意識を失っている間、カリンがその身体を支配し、あの男に逆襲した。
 囚えられていた子供たちは兄弟だったようだ。シーナが目隠しと枷を解いてやると、まだ呆然としている弟を二人の兄が泣きながら抱きしめていた。

「行くわよ」
 処刑の途上と少しも変わりない声だった。背を向けて歩き出すカリンに、シーナも渋々それにしたがう。抱き合う三人の子供たちは、夕日で血のように真っ赤に染まっていた。