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怪文書置き場

STBTYR 1-5

5.

 礼拝技術部がカリンの次の指令を全面的にバックアップすると決まったことで、シーナの追加人員の要請はかつてないあっけなさで承認された。おかげでこの一週間でシーナの組んだ実験プランは予定より大幅に前倒しになった。マンパワーの集中投入により、真の問題を隠していた雑多な可能性、疑わしい仮説の大群は一掃された。残されたのは、彼女の取り組むテーマ――大聖堂の高出力密度化――の手法が持つ、本質的な難しさだけだった。
 シーナもこの一週間、ラボに詰めてフル回転で実験と解析の指揮を取っていた。
しかしここから先は、もう一週間や一月程度のスケールに収まらない本当の長期戦だ。一旦休息を取る必要がある。そう判断しながらも、あと少しだけ、とシーナは打ち出した書類をもう一度頭から読み直した。教会が持つ大聖堂の合唱団、そのリーダーたちの「神の御姿」に関するデータだ。
 「神の御姿」。大聖堂による魔力発生において最も鍵となる概念、人それぞれが持つ信仰の姿だ。大聖堂は優れた一つの「神の御姿」で多くの人間を束ねることで莫大な魔力を生み出す。個人の「神の御姿」と他人のそれには相性があり、誰か一人の「神の御姿」で束ねることができる人数には限りがある。これが今の大聖堂の構造的な限界だった。
 しかし合唱団のリーダーたちの持つ優れた「神の御姿」からそれらの共通点を抽出し、ある種の均質化を施した普遍的な「神の御姿」を構築できれば、より多くの人間を束ね、より大きな魔力を得ることができる。大聖堂のさらなる大規模化、いわば大聖堂における量の向上を目指したアプローチだ。普遍的な「神の御姿」の構築は、研究所が現在最も力を入れている研究だ。
 それと対照的に質に着目しているのが、シーナたちだ。「神の御姿」――人間の精神活動、それを生み出す脳という器官と魔力発生のメカニズムを解き明かし、魔力発生そのものをより効率化する。質のアプローチはまだ大きな成果が上がっていないため研究所ではあくまで主流グループの「量派」に対するオルタナティブとして扱われているが、どちらも「神の御姿」――人間の信仰を本質と捉えているのは変わらない。この二つのアプローチは決して排他的なものではないはずだ。究極の答えは、二つの統合にある。シーナはそう確信していた。

 結論を再確認し、しかし書類を読むシーナの思考はまとまらなかった。「神の御姿」――信仰のカタチ。『雨の神』リーダーの少女のデータを確認しながら、彼女の「神の御姿」を思い出す。シーナはそれを利用するため、彼女を励ました。大聖堂のため、その所有者である伯爵、教会の権力者たちのために。
 データは、あの少女の「神の御姿」はただ多くの魔力を発生するだけでなく、外因によるゆらぎが極めて小さいことを示している。伝統への素朴な愛着か、地続きの人間関係を経由する経験か――彼女はそれだけ確固とした信仰のイメージを持っている、ということだろう。この特徴は他の合唱団のリーダーたちにも共通する。大聖堂では、他の合唱団員の「神の御姿」を、リーダーのものに共振させ従わせなければならない。他人の信仰に影響を受けてリーダーの「神の御姿」が乱れると、魔力の発生効率が落ちてしまう。だからゆらぎのない「神の御姿」、確固とした信仰は、大聖堂と教会にとって代替できない価値があるのだ。

 では、自分自身の「神の御姿」は? シーナはそう自分に問いかけた。両親の志向した、素朴で伝統的なルノ族の暮らし。おじさんたちが崇拝していた、ノア族に仕えるベクリー家。どちらもあの虐殺と戦争の炎の中で灰と化してしまった。シーナたちを襲った部隊は、彼女がルドノア共和国から脱出してまもなく介入を開始した多国籍軍空爆で全滅したと聞いている。自分たちに向けられた彼らの憎悪と暴力はあれほど凄まじく思えたのに、よその国の軍隊がふるう暴力の前では無力だったのだ。自分の半生を省みて、シーナは自分の問いにこう答えざるをえなかった――わたしには、信仰なんてない、と。

 では、姫は? 姫は教会の命令で何人もの人間と戦い、処刑してきた。彼女の「神の御姿」は、教会の命令、教会が維持し広めようとする秩序だろうか。いや、とシーナは否定した。姫が教会の秩序を絶対視していたとも、その命令による殺しに個人的な価値観から意味を与えていたとも思えない。
 あるいは、自身の魔術が彼女の信じる拠り所なのだろうか。姫は、城の奥から他の人間や人形を操って教会の敵を処刑する、傷つくことも死ぬこともない無敵の処刑者だ。それを可能にする自身の操作魔術のことは、信じているのではないだろうか。しかし、それはありえないことをシーナは確信している。かつてカリンがまだ処刑者ではなかった頃、ごっこ遊びのために城へ通っていた日々を思い返した。姫にとって、操作魔術は欺瞞の意識と切り離せない。そんな後ろめたさに囚われず、自身の持つ力はすべて姫の意思で、姫自身のためにふるえればいいのに。そう思ったが、シーナが姫と心の一番深いところで共有できたのもその欺瞞の意識だった。
「姫……」
 姫は父親である伯爵を殺されたうえ、父の仇討ちという名の死刑を宣告された。城の奥で守られていた元の身体も今では教会の手の内にあり、命令に逆らう余地はない。だが姫は、この理不尽に屈していなかった。姫には何か確かな拠り所がある。シーナは、そう漠然と確信した。
『わたしに、ついてきてくれる?』
 あの時の姫の声が脳裏から離れない。姫は、誰よりも先にシーナを頼ってくれた。それに応えたいと思う。シーナにそれ以外の選択肢はない。姫のためなら命も惜しくない――その気持ちに自棄な気分、後ろ暗い悦びがともなうのを自覚しながら、カリンとの旅のことを考えると、シーナは気分が浮ついた。仇の戦闘力の情報も、打倒する手段も、まだ見つからない。しかしシーナにとっては、カリンが自分を頼ってくれたという事実ばかりが重大だった。

 ため息が漏れた。集中できない。休息か、少なくとも気分転換が必要だった。まもなく日付が変わる。コーヒーでも飲んで、それから一旦家に帰るか考えよう。そう決めて自分のラボを出ようとしたとき、シーナは部屋の外がやけに騒がしいことに気がついた。
「なに?」
 共用の実験スペースに人だかりができていた。もう深夜で、ラボに残っている研究員は多くないはずなのに、だ。シーナは吸い寄せられるように人だかりのほうへ向かった。誰かが操作したのか、実験スペースで一番大きいモニタに映像が写った。
 画面に写っているのは、三人の人影だった。全員顔を隠し、どこか見覚えのある、簡素な民族衣装を身につけている。シーナはモニタを見上げながら、背筋から全身に寒気が走り、自分の思考の奥の奥からざわざわとしたものが迫ってくるのを感じた。
『高慢な教会の侵略者たちに宣告する』
 三人の誰かが、若い女の声で言った。
『ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、われわれ『ルドノアの子どもたち』が教会の侵略者たちに無慈悲な死を、侵略の象徴たる大聖堂に徹底的な破壊を与える』
 シーナは自分の身体を抱きしめた。手のひらが冷たい。震えが止まらない。
『これは脅しではない。先日、侵略者の貴族、カンダートを殺したのはわれわれである』
 頭の中で銃声がこだましている。鉈の刃が鈍く輝いている。
『われわれには、侵略者たちを打倒する力がある。抵抗は無意味である』
 産声が聞こえる。あのとき、炎の中、灰の中から生まれたものの産声が。
『繰り返す。ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、教会の侵略者たちを殺す。侵略の象徴、大聖堂は破壊する。われわれはルドノアの子どもたちである』
 中央の小柄な人影が顔に巻いていた布を掴むと、それをおもむろにはぎ取り、自身の顔をカメラにさらした。シーナは、その人間を知っている。顔を見るのは十三年ぶりだが、確かに面影がある。
『わたしはワーグ=リフェルド。『ルドノアの子どもたち』のリーダーだ』
 シーナがルノ族の過激派に襲われたとき、一緒にいたあの女の子だ。手を繋いでいたのに、あの惨劇の場に残してしまった女の子。
 彼女の名は、ワーグ=リフェルド。
 シーナの頭の中で、銃声と歌がこだまする。殴られて倒れた幼いワーグが、シーナを見上げて何か言おうとする。耳をふさぐ。銃声と歌声は消えない。目をつぶる。炎がシーナと両親の家を、おじさんの屋敷を、シーナとワーグの学校を焼き、世界を赤く染めている。
 シーナは気を失った。

「ねえ! そのうた、おしえて!」
 家の手伝いで羊の世話をしていたシーナに、舌足らずな声がかけられる。五つか六つくらいの小さな女の子がにこにこと笑っている。鼻歌を聞かれたのがこんな小さい子どもでよかったと思いながらも、初めて見かけたこの子にどう相手にするか、シーナは戸惑う。
「そのうた、なんていうの?」
 女の子は物怖じせずにシーナに近寄る。距離が子供の手も届くほどまで縮まる。
「『きらきら星』」
 つい気圧されながらシーナが答える。シーナを見上げるその子は、きょとんとした表情でまっすぐ彼女の目を見つめている。シーナは上手く伝わらなかったのかと思って、もう一度曲名を口にしようとする。
「きらきらぼし!」
 弾けるような声にシーナは驚いて身を引く。なにかに引っかかった感触。いつの間にか女の子に服の裾をつままれている。
「わたし、ワーグ」
 さっきのにこにこ顔よりさらに嬉しそうな、真昼の太陽の光のような笑顔。つられて顔がゆるんでしまい、シーナは慌てる。
 こうして二人は出会った。シーナが十三歳の夏のある日のことだった。

 気がつくと、シーナはラボの医務室のベッドにいた。
「目が覚めましたか」
 マリア=満月だった。シーナは起き上がろうとしたが、自分の身体の重さに勝てなかった。全身に疲労感がある。
「しばらく安静にしなさい。姫のことも、あの犯行声明のことも忘れなさい」
 そういうわけにはいかないだろう。悪態をつこうとして、声を出すのも難儀することに気がついた。思った以上に消耗していた。
「情報収集は任せなさい。今のあなたにできることは、休息を取ることぐらいです。そのくらい分かっているはずですが」
 リーダーのことはわたしが知っている、情報収集にもわたしが必要だ、そう言い返してやろうとしたが、マリアはさっさと部屋を出ていってしまった。シーナは、くそ、と声にならないうめき声をあげた。カーテンから淡く光が漏れている。もう夜は明けたようだ。まぶしいな、と目を閉じると、抵抗する間もなくまた眠りに落ちた。

 はっと目を覚ますと、カーテンから漏れる日差しがすっかり強くなっていた。たっぷり睡眠を取り、体力はいくぶん回復したようだ。時計を見やると、ちょうど正午をすぎた頃だった。
 サイドテーブルに、数枚の書類が置かれていた。
「『ルドノアの子どもたち』……」
 CIAの印の入った調査報告書だった。マリアだな、とシーナは思った。どういう経緯かはまったく分からないのだが、マリアは諜報関係に人脈がある。マリアはこれまでも信仰委員会以上の情報をどこからか手に入れていたことがあった。
 シーナはベッドに腰掛け、報告書を読み始めた。『ルドノアの子どもたち』。初めて活動が確認されたのが六年前。名前の通り、ルドノアの虐殺で孤児になった子供を中心とした組織と言われている。犯行声明の印象では民族集団の武装組織だったが、一種の傭兵集団だとされているようだ。正規軍の代替・補助戦力のような扱いではなく、暗殺と破壊工作のスペシャリストとして主義や民族によらず他の武装組織の依頼を受けて活動している。組織の名前も顧客の活動や内部の情報提供者から知られたのであり、『ルドノアの子どもたち』が独立して自身の存在をアピールしたのは、つい昨日のカンダート伯爵の件のみだった。
 組織の創立者でもある現在のリーダーは十代の少女だ、という情報は複数のルートで報告されていたが、どれも情報の信頼性に疑問があって未確定とされていた。だが昨日教会に送りつけられたあの犯行声明で、リーダーについては明らかになった。ワーグ=リフェルド。ルドノアにいた頃のシーナの一番の友達であり、妹のような存在であり、だがあの日、シーナは彼女をあの国に残して逃げることしかできなかった。

 自分の七つ下だからワーグは今十九歳だ、と計算し、シーナはルドノアを出国してからの十三年の歳月に思いを馳せた。自分がこの十三年間、アメリカで学校に通い、姫と出会い、魔術を研究してきた間、ワーグはどんな人生を送ってきたのか、今日まで考えたことはなかった。あの占拠された学校でワーグは死んだと思っていたからだ。それを疑ったこともなかった。シーナは、ワーグがあの日を乗り越え、どんな形であれ今まで生き延びていたことを肯定的に捉えようとした。しかし、できなかった。

『ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、教会の侵略者たちを殺す。侵略の象徴、大聖堂は破壊する』
 あの映像のワーグの言葉に、昔の彼女の面影、あの太陽のような笑顔の名残を探したが、見つかるべくもなかった。容易なものではないであろう十三年間が、かつての彼女を破壊してしまったのだ――そう思って、シーナは喪失感と恐怖で腹の奥が冷たくなった。
 今日までのワーグの歩みを想像しようとした。どうやって、あの日、あの虐殺を生き延びたのか。多国籍軍の介入で激化した戦争から逃れたのか。戦う力を手に入れたのか。なぜ、『ルドノアの子どもたち』を作ったのか。教会に牙をむくのか。大聖堂を破壊しようとするのか。――伯爵を殺したのか。疑問はとめどなくあふれ、数えきれない。
 しかし、では、自分はなぜ生き延びることができたのか。伯爵が間一髪のところで助けに来てくれたからだ。なぜ伯爵が来てくれたのか。それは、ベクリー家と伯爵の間に交易関係があったからだ。つまるところ、自分が生き延びることができたのは、ただの偶然、幸運が積み重なった結果だった。伯爵という国外の有力者と繋がりのある家に生まれた幸運。でありながら本家から距離を取っていたために、裏切り者の一族として家を襲われず、伯爵の救援が間に合った幸運。
 あのとき、あの国で、たくさんの人間が無為に殺された。殺されずに済んだ、運に恵まれた人間たち。わたしはその中の一人なのだ。わたしも、そしてワーグも。けれどわたしは出国できても、ワーグはあの国に留まるしかなかった。きっとほんの少しの運の差がわたしとワーグを分けたのだ。なにかちょっとしたことの掛け違えで、わたしがあの国に留まることになっていたかもしれない。
 ぶるり、とシーナは寒気に震えた。

 シーナは、伯爵の力であの国を出ることができなかったら、と想像してみた。学校の襲撃を乗り越えられたとして、その後の絶え間ない空爆、市街地で頻発する発泡と戦闘、対象も定かでない爆弾テロ。どれもシーナが味わわずに済んだ恐怖だ。だが戦場の街で育ち孤児たちを傭兵として束ねているワーグは、そんな恐怖もよく慣れ親しんでいるだろう。それを自分の武器にすらしているかもしれない。
 暗闇の中でばらばらだったなにかが、かちりと音を立てて噛み合った気がした。ワーグはきっと暴力の炎で焼かれ、その灰の中から掘り出したもので自分をゼロから作り直したのだ。

 気付くと歯を食いしばり、布団を握りしめていた。ブラウスも下着越しに汗でじわりと濡れている。
 あの元気があり余っていて、いつも陽の光のように笑っていたワーグ。なにもかもが大人たちのためのジェスチャーゲームとしか思えなかったあのときのシーナにとって、ワーグの笑顔は世界の素朴な善良さ、楽観的な未来の全てだった。世界中が、この子がこの子のままでいられるようにあって欲しいと祈った。ワーグを守ることも、少しだけなら、自分にもできると思っていた。
 しかし、自分はそれに失敗したのだ。これ以上なく無惨なかたちで。

 震えが止まらなかった。シーナは自分の中で大きな感情のうねりが暴れているのを抑えようと、深呼吸した。効果はなかった。だが、自分がやりたいこと、やらなければいけないことははっきりした。
 ワーグを止めなければならない。

 マリアに会いに彼女の部屋に入るなり、シーナは一枚の書類を押し付けられた。
「昨日倒れたのは、この人物に関係があるのですか」
 書類はワーグに関する調査報告だった。粗い写真が貼られている。その中でワーグは武装した若者に囲まれながら、前方のなにかに厳しい視線を注いでいた。
「ええ、そうです」
 マリアはもうワーグと自分の関係について概要を把握しているはずだ、とシーナは判断し、率直にいくことにした。今の状態でマリアと複雑な駆け引きをするのは無理がある。
「あなたの過去とそれにまつわる後悔のすべてを知りたいとは思いません。わたしはそんなものに特段興味を持っていません」
「でしょうね。わたしも個人的な理由を他人に理解してもらおうとは思っていません」
 ふう、とマリアがため息をついた。シーナもつられそうになるが、我慢する。反撃されて話がこじれる前に話を進めたかった。
「それで本題ですが、委員会の今回の命令の件、ひ……カリン様に同行することにしましたので、ご報告まで」
 マリアの目つきがわずかに険しくなるが、気付かない振りをする。
「ああ、『ルドノアの子どもたち』の資料、わざわざありがとうございました。いつもながらシスター満月の人脈には感服します」
 言葉を重ねながらも平静を装えているか不安になって、背筋を汗の粒が伝った。マリアの視線が秒刻みできつくなっている気がする。
「それで彼らの潜伏場所……」
「ミズカンダート」
 じろりとはっきり睨みつけられた。
「あなたにとって、いまさらあの国はそれほど重要なものですか?」
「は?」
「後悔と強迫観念があなたを衝き動かし、並外れた魔術技師にしたのは想像にかたくない。ときにそういう特殊なモチベーションが素晴らしい結果をもたらすことを、わたしは理解しています。だが変えようのない過去というものがあなた自身に牙を剥いたのなら、あなたはそれを捨てるべきだ」
「シスター満月?」
 シーナには、マリアがなにを言いたいのか飲み込めなかった。
「現在に目を向けなさい。今あなたは、自身が積み重ねたものを持っているでしょう。あなたはもう、過去への執着なしに前へ進めるようになっているはずです」
 マリアの言葉に熱があった。視線の強さは率直だが、言葉はどこかまわりくどい。こんなマリアは初めて見た、と妙に冷静な気分になりながらシーナは思った。
「あなたのモチベーションにするべき、今までと違う新しいなにかは、きっとあなたのすぐそばにあるはずです」
 そう言って、マリアは大きく息を吐き出した。シーナに向けた視線には先ほどまでの強さがないかわりに、彼女の様子をうかがう冷静さが戻りつつあった。
「わたしは、ワーグを止めなければいけないんです」
 しかし、シーナの結論は変わらない。シーナはマリアを正面から見据え、そう告げた。マリアの様子には驚かされたが、シーナのスタンスはかえってはっきりした。
「ワーグ=リフェルドの居場所は現在捜索中です。確定し次第、すぐにカリン様に命令が下るでしょう。考えなおす時間は限られていることを忘れないように」
 しばらくにらみ合いが続いたが、マリアはどこかばつが悪そうに手元のコンピュータに視線を落として言った。言いたいことはいろいろあったようだが、ひとまずシーナの決断を了解してくれたようだ。
 退室すると、自然と大きなため息が漏れた。身体の力が抜けると、昼までベッドにいても抜けない疲労があるのを感じた。だが、本当に大変なのはこれからだ。シーナは身体を引きずりながらラボを出た。

 カンダート城に来るのは数年ぶりだったが、以前より人の気配がなく、それをシーナは意外に思った。カリンの本当の身体は教会が押さえていると聞いていたから、城は教会の兵士たちが包囲・制圧していると予想していたのだ。しかし城には、兵士の姿も使用人の姿も見えなかった。
 扉はシーナが近づくと誘うように開くから、一応訪問は歓迎されているようだった。シーナは、カリンが処刑者になる前、まだ城によく来ていたころは、小さな人形やぬいぐるみが城の案内をしてくれたことを思い出した。あのころカリンは等身大の人形はほとんど動かせず、動かせるのははっきりと人間とかけ離れたものばかりだった。
 扉の開く方へ誘導されるまま城の中を進むと、シーナが初めてカリンと会った広間に出た。ただ、あのときのカリンそっくりの人形はすべて片付けられ、かわりにブティックにあるようなマネキン人形が並べられている。シーナはマネキンに着せられた服に既視感を覚えたが、すぐに気付いた。どれも昔、シーナが選んでカリンが着た服だ。シーナはいばら姫の服装をしたマネキンに触れてみた。一般的な樹脂素材でできた、ありふれたマネキン人形だった。
「姫……」
 目を閉じてカリンの義体の感触を思い浮かべる。目の前のマネキンとはまるで違う、と思った。魔術で操りやすいように人体の構造を魔力親和性の高い素材で再現した義体とただのマネキンでは、かけられた手間が違う。それはかつてこの広間に置かれていた人形も同じだ。あの人形たちは、一体一体がカリンに極限まで似せようと職人が作った美術品だった。それに対してマネキンたちは目も睫毛も造形されておらず、すすんで匿名性を持たせようとしているように思える。一体一体の個性もないから、同じ金型で作られたのかもしれない。

 シーナがマネキンから離れようとしたときだった。マネキンの一つ――親指姫が動き出した。あの時とは違い、姫の魔術を心のどこかで予期していたシーナは驚かなかった。親指姫はステップを踏みながら広間の中央に進み出る。姫はなにをするつもりなのだろう。そう思ってシーナは親指姫を追いかけようとすると、親指姫に続いて白雪姫が、人魚姫が、マネキンのお姫様たちが次々と動き出した。間違いなくカリンの操作魔術だ。しかし、実物サイズのヒトガタを同時にこれほどの数動かすところを見たのはシーナも初めてだった。
 親指姫がくるくるとつま先立ちで回転し、軽やかなジャンプを決めた。それに見とれていた人魚姫が、親指姫の動きを真似しながらその後を追いかける。ステップから二体同時に大きくジャンプし、親指姫は立ち止まった。マネキンたちは声を出さないし音楽もかかっていないから、広間には絨毯でくぐもったマネキンの足音とその手足が空気を切る音だけが響いている。激しくも静謐な踊りだった。
 人魚姫は親指姫を追い抜いて踊り続け、今度はマネキンたちの中にいたいばら姫の手を取ると、そのまま力を込めてマネキンたちの群れからいばら姫を引き寄せた。いばら姫はマネキンの群れから引っぱり出されると、人魚姫の手を離し、群れから出た勢いでスピンしながら速いステップで広間を駆け抜ける。高いジャンプを決めて壁に飾られていた靴を取り上げ、再びマネキンの群れに戻っていく。一体のマネキンの前でかしずき、靴をうやうやしく差し出す。その靴にシンデレラが足を入れた。靴を履いたシンデレラもまた、全身を満たす歓喜の感情を表現するかのように、回り、跳び、踊る。広間を大きく使って再びマネキンの群れに戻ってくると、一人寝かされていた白雪姫を抱き起こし、キスした。白雪姫は目覚め、シンデレラと固く抱きしめ合った。
 全てのマネキンの動きが止まった。ここでマネキンたちのショーは終わり、ということだろうか。カリンの意図は分からないが、その魔術の進歩ぶりはよく分かった。カリンは昔、自分と似せた人形の一体しか動かすことができなかった。それはカリンが人間に近いものほど『自分に似ている』と思うことができないのが原因だった。あのときのカリンは、明らかに人間でない小さな人形やぬいぐるみやは許容できて、人間に似せた大きさ、カタチのものは受け入れられなかった。マネキンはカリンの許容できないものの最たるものだっただろう。しかし今のカリンは、教会の処刑者として戦う中で複数義体をローテーションで運用したり、他人の身体すら奪うこともできるようになった。ならば多数のマネキンを操ってショーを見せることくらい、わけのないことかもしれない。これは単純な魔術の進歩ではなく、カリンの内面の変化によるものに思えた。つまり、それだけ姫は変わった、ということなのだろうか。わたしはそれに気付いてなかったのだろうか――シーナは胸のうちがざわめくのを感じた。
 シーナはマネキンたちに拍手をするべきか少し悩んで、結局胸の前で小さく拍手した。それに答えてか、最後のマネキン、白雪姫とシンデレラが手をつなぎ、ステージから退場するように広間の奥の扉へ歩き出した。シーナが一度も通ったことがない扉だった。両開きの大きなその扉の奥になにがあるのか、シーナは以前から気になりながらも、結局聞けずじまいになっていた。扉が開き、二体のマネキンがそれをくぐる。経緯からすると、ついてきなさい、という意味で間違いない。マネキンたちのわきから扉の奥を覗いた。他と同じ城の廊下が数メートル続いて、またすぐに扉がある。おかしい、とシーナは感じた。扉の間隔が近すぎる。どういう意図でこんな間取りになったのか、見当がつかない。マネキンたちが離れていく。シーナは二体のあとを追った。
 シーナが広間の側の扉を通ると、そちらの扉が閉まり、奥側の扉が開いた。二つの扉は同時に一つしか開かないようになっているのか、と扉を振り返って、シーナは驚愕した。広間側から見ればただの扉のように見えていたそれの廊下側は、人の腕ほどの太い金属シャフトでロックされ、扉全体にプラチナと銀の彫り物でなにかの魔術を刻み込まれていた。マネキンたちは奥の扉をくぐるところだった。シーナは得体のしれない寒気を感じながらその後を追った。
 奥の扉の先は、地下へと続く階段だった。壁はむき出しのコンクリート、床はタイルで作られている。もはやシーナの知っているカンダート城とは別の施設のようだった。階段を降りてまた一つ扉を抜けた先は搬入用の業務エレベーターで、それに乗ってさらに地下へ進んだ。そして今までの扉よりひときわ巨大な扉の前に辿り着いたところで、二体のマネキンは立ち止まった。
 地上の広間の扉からここまで、要所要所で厳重な機械的・魔術的封印が施されていたが、この扉はその大きさに合わせて封印も最も強力だった。見上げるほどの高さの扉には丸太のような金属シャフトが縦横に走り、周囲の壁面や床、天井と扉をつなげている。魔術も貴金属への彫り込みに加えて宝石も用いられていた。
 シーナがまず思い浮かべたのが、金融機関の金庫だった。正規の方法以外で中にアクセスするコストを限りなく高め、侵入者の銃弾、爆薬、その他もろもろの脅威から中の金品を守るための設備だ。次にシェルターを連想した。空爆、核攻撃に耐え、攻撃の数日間か数週間を生き延びるための避難所だ、と。
 しかし、シーナの中の冷静な思考はこの連想を逃避だと切り捨てていた。この扉が中のものを守るためのものだと考えるのは、理にかなわない。シーナは扉までの道を振り返った。地上側、広間の側からはただの扉に見えて、地下側、この扉の側から見えるのは何重もの扉と封印だ。
「姫……」
 二体のマネキンは、もうぴくりとも動かない。シーナは扉に触れた。金属の冷たい感触が自分の体温をほんの少しずつ奪っていく。この奥になにがあるのか、姫はなにを見せたかったのか、シーナは理解した。この扉の奥に、本当の姫がいる。だが姫は守られているのではなく、閉じ込められているのだ。ここは、巨大な檻なのだ――。

 広間に戻ってくると、どこからか流れてくる音楽に合わせてマネキンたちが踊っていた。肩に触れられ、振り返る。シンデレラの衣装を身につけた、義体のカリンだった。
「姫、わたし――」
「わたしと踊ってくださる?」
 カリンは少し申し訳なさそうにしながら手を差し伸べた。
「ダンスなんて無理です」
「いいから」
 カリンはシーナの手を掴み、広間の中央に誘った。
「ですが姫……」
「ただ二人で手を繋いで、音楽に揺られていればいいの」
 抱き寄せられてシーナは硬直した。すぐ近くにカリンの瞳がある。見よう見まねで腰に添えた手からも、カリンの――義体の細さと硬さを意識してしまう。
「力を抜いて。音楽とわたしを感じて」
 シーナは目を閉じた。音楽に、カリンのリズムに合わせるように意識するうち、だんだん二人のリズムが溶けるように合ってきた。自分の半分を音楽に、もう半分を相手に任せると、不思議と落ち着いた気分になった。
「本当のことを言うとね」
 二人の視線が絡む。カリンは恥ずかしげに少し目を伏せた。
「初めて会ったあのとき、あの人形を羨ましいって思った。だから操れるようになったんだと思う」
 羨ましい――自分もそうなりたい。それは、『自分に似ている』とは違った、けれどどこか近しい気持ちかもしれない。
「ありがとう。あなたのおかげよ、シーナ」
 カリンの言葉に望外の喜びを感じながら、シーナは続く言葉を聞きたくないと思った。
「やっぱりわたしは一人で行くわ。シーナはここに残っていて」
 ゆったりとした音楽のリズムに溶け合っているのに、心にはまだ距離があった。シーナの瞳から涙がこぼれ、頬を伝った。
「ごめんね、シーナ」
 自分のことを案じてくれた上でカリンは決めたのだとシーナには分かっている。けれどシーナも、カリンの心遣いをそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
「わたしも行きます。わたしにも行く理由があるんです」
 あの国にはワーグがいる。シーナ自身の過去と悔恨が。
「わたしのための旅でもあるんです」
 涙があふれ、嗚咽がこみあげてきた。
「そう……」
 シーナには、泣けない義体の中でカリンも泣いている気がした。
「いっしょに行こう」
 ダンスの途中で静止したマネキンたちに囲まれて、二人はそっと唇を重ねた。

 三日後、監視衛星と現地の協力者からワーグたちの潜伏場所の情報が入った。旅立ちのときだった。三時間後に出発せよ、と信仰委員会から指令が下されてすぐ、マリアがシーナを訪ねてきた。
「それで、まだ気は変わらないのですか」
 マリアはてっきり諦めたものだと思っていて、シーナは少し驚いた。
「端的に言って、わたしたち礼拝技術部と教会にとって、あなたの研究者としての価値は、カリン様に優先する。あなたの自己認識とわたしたちの評価に齟齬があるようだから言っておきますが」
 シーナは、マリアの言葉が飲み込めず、彼女をじっと見つめた。
「姫――カリン様を切り捨てろ、と仰りたいので?」
 答えは無言だった。代わりに深い皺の刻まれた目元から、鋭い視線でまっすぐに見つめられる。だが、シーナには姫を切り捨てるつもりも、ワーグに背を向けるつもりもなかった。しばらく睨みあって、またしてもマリアは目線を外してため息をついた。
「あなたにはまだやってもらいたい案件があります」
 目尻のあたりを指で揉みながら、どうでもよさそうな投げやりな口調だった。
「ラボの別チームからあなたの研究室や設備をよこせと非公式の要請がありましたが、つっぱねておきます。予算も今期分はそのまま、再編成なしです。ただし、今期までとします。それまでに本来の職責に復帰し、自分の設備、予算、立場を守るように」
 あなたの居場所は残しておきます、だから必ず帰ってきなさい――マリアは、遠回しでそっけない、突き放した態度を取りながら、そう言っていた。
 マリアが出ていってからシーナはマリアの言葉の意味を飲み込み、胸の中でこみ上げるものがあるのを感じた。

 できるうる限りのことはしたつもりだった。だが、自分たちを取り巻く状況の厳しさは変わらない。生きて帰ってくるところを想像できなかったが、それでも選ぶべき他の選択肢は思い浮かばなかった。この先に自分の終着点がある、という確信はある。それに恐怖を感じないといえば嘘だった。けれど。
「行きましょう、シーナ」
 自分は一人でない。共に行く理由は共有できなくても、姫は一緒にいてくれる。だから恐怖に包まれても前に進めると思った。

 そうして二人は死の旅に出た。