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怪文書置き場

STBTYR 1-3

3.

「では、彼女の独唱を皆さんに聴いてもらうことにしましょう。彼女がリーダーに相応しいことは、すぐに分かっていただけるかと思います」
 シーナの唐突な提案に、そのリーダー——十二歳ほどの少女だ——が戸惑っていた。何十人もの大人たちに囲まれて縮こまっていた彼女が、さらに身を小さくしている。合唱団の他のメンバーや教会のスタッフも釈然としない様子だが、シーナはその少女に微笑みかけて手招きした。
 建設中の大聖堂「雨の神(ジャガー)」で、リハーサルを繰り返しても計算通りの出力が出ない。本稼働までに日がない、早急に原因を特定して解決して欲しい——マリアの命令は、具体的にはそういうことだった。
 シーナたちがいるのは、雨の神のコアである大ホールだ。建設中といっても、一般的な内装工事や魔術的なモニタ装置の設置は完了していて、大聖堂の設備機能は既に完成している。問題は、その中に入る人間の側にあるようだった。
 リーダーの少女がシーナの前にやってきた。身長はもうシーナと同じくらい——大人と変わらないが、鼻や頬にはまだまだ歳相応の幼さが残っている。表情もたくさんの大人に囲まれる不安が見えた。シーナはそっと顔を近付け、その子の耳のすぐ近くでささやいた。
「あなたの歌、とても素敵よ。あなたの『いつも通り』なら、きっと皆さんもあなたの歌が好きになるわ」
 嘘いつわりのない本心かと問われると、自信を持って答えられないな。そう思いながらシーナが顔を離すと、少女の頬はわずかに上気していた。
「でも、わたし、自信ないです」
 かえって不安にしてしまっただろうか? シーナは思い切って、その子をそっと抱きしめた。腕の中で彼女が驚きで身を固くしたのが分かった。
「あなたがあなたのお母さまと一緒に歌ったとき、どんな感じだった? それを思い出して。神さまが見守ってくれる感じ、したでしょ?」
「神さま?」
「そう。神さまは、いつもあなたを見守っているわ。神さまを信じて」
 そうしたら、わたしがその神さまを掠め取らせてもらうから——シーナは自分の中の声がそう告げるのを無視しながら、少女を抱き続けた。彼女の身体から固さが抜けていく。頃合いを見計らって、シーナは身を離した。少女の表情には、まだ力みはあっても不安は薄れていた。考えすぎるな、と自分に言い聞かせながらシーナがそっと肩に触れてうながすと、彼女は振り向いて合唱団のメンバーに向き直った。合唱団メンバーやスタッフたちの間に緊張が走り、一瞬、大ホールがしずまりかえった。静寂の中にすっ、と小さく彼女が息を吸うのが聞こえたと思うと、大ホール一杯に彼女の歌声が響いた。
 あの少女を合唱団のリーダーに指名したのはシーナだった。合唱団で最年少の彼女は、教会の大聖堂でない、普通の合唱団ではまだまだ入りたての新人だった。ベテラン揃いの『雨の神』の合唱団のメンバーが、歌手としてはまだ若く技術的には未熟な部分も多い彼女を素直にリーダーと認めなかったのは想像に難くない。しかし「雨の神の合唱団のリーダーは、彼女以外あり得ない、とシーナは考えていた。彼女の持つ「神の御姿」こそが、大聖堂『雨の神』に最も相応しい、と。
 大聖堂は、人間の『祈り』による魔力の発生を極限まで利用する。根本の思想は、多数の人間を合唱などの一種の儀式を通じて同調し、一人一人の『祈り』を高純度で巨大な『祈り』とすることで効率よく大魔力を得る、というものだ。そのためには、合唱団全員が単一(コヒーレント)な神のイメージ、「神の御姿」を共有しなければならない。その核となるのが、合唱団のリーダー自身の「神の御姿」だ。リーダーがその歌唱を通じて自身の「神の御姿」を提示し、合唱団の一人一人が自身のイメージをリーダーのものと重ね合わせることで意識を同調し、祈りを束ねて純度を上げる。しかしこの手法では、純化した合唱団分の祈りの形はリーダーの持つ「神の御姿」に大きな影響を受ける。大聖堂として大きな出力を得るには、高効率な魔力発生に都合の良い「神の御姿」を持つ者をリーダーに据えること、そしてリーダーを中心にして合唱団、聴衆たち全員が調和する――ハーモニーが形成される必要があるのだ。
 彼女より十か二十は年上の人間ばかりの合唱団のメンバーたち全員が、彼女の歌声に感銘を受けていた。シーナはスタッフとモニタ装置を確認した。メインディスプレイには、ホールを上から見た映像とさまざまな色の光点が重ねあわせて表示されている。光点は一見カラフルなサーモグラフィ、つまり赤外線の放射を捉えたものに見えるが、これは人体の活動——微小な脳波や体温、心拍数などからある種のパターンを抽出し、魔力発生の兆候として表示したものだ。この映像から合唱団がうまく「神の御姿」を共有できているか、おおよそのところを読み取ることができる。
 このシステムを通すと、ホールの団員たちは身体の大部分が橙に、それ以外の部分がところどころ青や緑に発光しているように見える。中でも一際鮮やかな橙色で全身を輝かせているのがリーダーの彼女だ。彼女も、他の団員も、その光の色や強さが歌声に合わせて揺れるように変化していた。
 リーダーの少女の歌唱は徐々に熱が入り、いよいよ曲のクライマックスに差し掛かった。まちまちだった団員たちの光が歌の盛り上がりに合わせてリーダーの光に追従していく。色はリーダーの彩度の高い橙色に染まり、瞬くリズムもリーダーのそれに同期している。団員おのおのの「神の御姿」が、リーダーのイメージに統一されているのだ。
 計算通りの出力が得られなかったのは、合唱団が彼女をリーダーとして認めず、祈りの位相が揃わなかっただ。それでは理想的なハーモニーは形成されない。しかし彼らも改めてあの少女の独唱を聴く機会を作ってやれば、そして大聖堂の機能——自律神経に働きかけるガスと非可聴領域の通奏低音・通奏高音、照明を利用したサブリミナル効果を駆使した『緩やかな』トランス状態への誘導——の影響下なら、彼女の心の「神の御姿」の美しさに共振するだろう。予想通りにことが運び、仕事は終わったも同然だった。シーナはスタッフに任せてホールを出た。これで何度かリハーサルを重ねれば、計算通りの出力が得られるはずだ。

 大聖堂は、魔力発生技術の最先端だ。シーナは彼女の姫、カリンのため、より強力な魔術を行使するための魔術道具を作ることを志した。指輪、腕輪、イヤリング、ネックレス、ティアラ、それにドレス。魔力を発生・運用するための魔術道具、その研究の道でたどり着いたのが、CCM(大聖堂投射魔術)だった。CCM——その中核となる大聖堂(カテドラル)は現代において最も大きな魔力を生み出す思想であり、方法論であり、施設の規模にまで大型化した魔術道具だ。
 強力な魔術には、膨大な魔力という資源を必要とする。人間が自然に生み出し、蓄えておける魔力量——魔力容量には個人差が大きく、魔術符号の圧縮や魔術器具での活用といった工夫はこの個人差を埋められるほどの効果は得られない。だから、魔術の発展は魔術師個人の魔力の限界を超えるための技術の発展とほぼイコールだ。魔力を魔術師自身から切り離し保存する技術。保存した魔力を取り込む技術。鍛錬で拡張した魔力容量を他の人間に継承する技術。そして、複数の魔術師の魔力を合成する技術。
 大聖堂投射魔術——CCMは、連綿と続く魔力合成技術の一つの極みである。その名の通り大聖堂に人を集め、それを音響・照明・ガスを駆使して生理化学的にトランス状態に導く。その上でバイブルの朗読や賛美歌の斉唱で祈りの位相を揃えて合成し、大きな魔力とするのだ。魔術師は大聖堂と霊的に接続し、生み出した大量の魔力を使って大魔術を投射する。
 従来の魔力合成技術——儀式魔術が魔術師同士の同調によって魔力合成と投射が一体になっていたのに対し、CCMは魔力合成と投射が分離されている点、合成する魔力は投射を担当する魔術師以外から引き出す点が異なる。儀式魔術では魔力量に優れる魔術師同士で魔力を合成しようとしても、投射を担当する魔術師がネックになって霊的同調が不十分になり、魔力合成でのロスが大きくなってしまう。しかし人間の認知機構の解明と脳科学の進歩を応用した大聖堂は、多数の魔術師でない人間から魔力を引き出し、僅かなロスで魔力合成が可能だ。魔力発生における質から量への転換である。
 量——規模の力学が働くようになった後は、どの分野でも起こることが魔術においても同様に起こった。大聖堂の大きさの競争、保有数の競争だ。考案当初は歌手一人と聴衆数十人規模だった大聖堂は、実験レベルでは最大で合唱団百人、聴衆一万人もの規模にまで大型化した。ここ『雨の神』では合唱団二十人強、聴衆数五千人ほどであり、実用されたものとしては最大級になる。
 もちろん大規模な施設、魔術道具を作るのはどんな個人や集団にとっても容易ではない。大聖堂が考案されてからこの十年、世界中の有力者がより大きな大聖堂を建造し力を誇示しようとした。しかし規模の拡大とそれに伴う魔術レベル・コストの上昇により、淘汰は急速に進行した。今では、大型に分類される大聖堂——既存の大聖堂を持つ者に対して脅威となる規模の大聖堂を建造・運営できるのは、ごく少数の貴族たちだけになった。ここ『雨の神』も、所有者は教会の有力者であるカンダート伯爵だ。
 カンダート伯爵は、教会の最上位機関である信仰委員会の役員の一人であり、教会で――つまり世界で最も多くの大聖堂を所有している貴族だ。委員会役員になったのはつい去年のことだが、実効的な影響力はすでに委員会の中でも飛び抜けている。十年前まで小貴族の一人にすぎなかった伯爵が今の地位に至るまでの歩みは、大聖堂の発展の歴史とぴったり重なる。それは大聖堂は伯爵の投資により発展し、伯爵自身も大聖堂の生み出す力で地位と影響力を得てきたからだ。伯爵は最も早い時期から大聖堂に目をつけ、その恩恵を受けた貴族だった。そして伯爵がどこからかカリンを引き取ったのも、同じ時期にさかのぼる。

 カリンが伯爵の義理の娘になった経緯、教会の処刑人になった経緯は、シーナも聞いたことがなかった。気安い事情でないことは容易に想像できるから、突っ込んで聞けないのだ。伯爵もその周りの人間も口は重かったし、機密を匂わせられることもあった。処刑人としての適正を見出したからだろうか。処刑人のことは伯爵としても教会としても暗部であるのは間違いないから、シーナはいつからか教会の人間に疑問をぶつけるのは避けるようになっていた。
 先ほどのリーダーの少女はどんな境遇を経てここにいるのか、思い出そうとした。合唱団は選定にあたって思想と信仰を含む広範な身辺調査をおこない、その報告書もひと通り目を通したはずだった。細かいデータは思い出そうとするうち、マリアからアサインされた人員を使ってこっそり姫の過去を調べる、という誘惑に襲われた。いや、とシーナはすぐにそのアイディアを否定した。彼らは自分の思い通りに動かせても、結局マリアの命令が優先される。姫の調査なんてさせたら、マリアはすぐにそれに気付く。自分からマリアに弱みを握らせるようなものだ。教会への反逆すら疑われかねない。いや、そもそも本人に隠れてこそこそ過去を調べるような真似をするべきじゃないだろう。姫本人が話してくれるような信頼を得ることこそが重要であり……。
 発散気味の思考を持て余しながら、シーナが『雨の神』の事務室へ廊下を歩いているときだった。
「シーナ」
 まさかと思ってその声に振り向くと、そこにはカリンがいた。
「カリン様……?」
 カリンの深い黒のドレスの裾が、まだ小さく揺れていた。彼女は一瞬前まで足早に廊下を歩いていたのだ。黒いドレス。シーナには見慣れない姿だったが、白い肌とのコントラストが鮮やかで、カリンの鋭さのある顔立ちに似合っているな、と新鮮な驚きがあった。それにしても、とシーナは考える。黒い魔術道具はまだ作ったことがなかったし、黒が好きではなかったのは彼女自身もカリンも同じだと思っていた。そのカリンが、今日はいったいどんなきまぐれだろうか。……喪服? ふとシーナの脳裏に、その言葉が浮かんだ。
 カリンが小さく息を吸った。
「シーナ——わたしに、ついてきてくれる?」
 迷いのない言葉とまなざしだった。優雅悠然、誰を相手にしても堂々としたカリンの、いつもの態度だ。しかしシーナには、どこか違和感があった。その声には、まるでカリンの心の奥のほう、とても柔らかい部分をむき出しにしてそのままぶつけているような、あやうい響きがあった。だからだろうか。ありえないのに、そう想像することもシーナには後ろめたく思えるのに、カリンが、彼女に向かって懇願しているような、そんな気がした。
「シーナ」
 もう一度、カリンの声。今度は仄かに焦りか、苛立ちか——それとも羞恥?——が混じっている。シーナははっと我に返った。
「か、カリン様の御心のままに、どこへなりと……」
 舌がもつれてもどかしい。なんとか言葉を重ねようとシーナが口を開こうとしたときだった。しわがれた女の声がそれを遮った。
「貴女には選択する権利があります。貴女自身の信仰、生命に大いに関わる選択だ。
気安い返答は慎むことを薦める」
 伝統的な修道服を着た五十絡みの女——マリア=満月だった。教会の礼拝技術部部長、シーナの直属の上司だ。
「どういうことですか?」
 シーナの問いに、カリンは一瞬口を開こうとして、やめた。マリアが、私から説明いたします、と切り出した。カリンは小さく頷き、今度はいつものようにドレスの裾をほんのわずかに翻し、優雅に廊下を引き返した。
「場所を変えましょう。邪魔の入らないところへ案内しなさい」
 カリンの姿が見えなくなるのを待ってから、マリアが言った。

「伯爵——カリン様のお父上が殺されました」
 『雨の神』の来賓室の一つ、一番質素な一室に入った途端、マリアが告げた。
「礼拝中の襲撃でした。襲撃者は五人。調査中ですが、共和国のゲリラの線が濃厚です」
 シーナが言葉を失っているのに構わず、マリアが続ける。
「問題は手口——手段です。襲撃者たちは、伯爵の展開した防壁をなんらかの手段で無効化して致命傷を与えました。それも攻撃開始から数十秒という時間で、です。襲撃者たちは、当然ですが、大聖堂ないし外部の霊的拠点と接続しているとは考えづらい。彼らは、携行可能な魔術道具と、たった五人という人数で、大聖堂の支援下にある伯爵の防御を突破したのです」
 シーナはマリアが淡々と語る二つの事実に打ちのめされていた。
 まず、伯爵の死だ。伯爵は教会で最も強大な権力者の一人だ。その地位の重要性は、この十年で一国の元首と同等以上になっている。この暗殺は教会の秩序への最大級の反逆だ。教会の内部では他の貴族たちは伯爵が持っていた権益を巡って争いが起き、勢力図は大きく変わらざるをえない。それに伯爵は、占領下の共和国の統治にも影響力を持っていた。今後は共和国の統治戦略も大きく変わるかもしれない。
 もう一つが、襲撃者たちが伯爵の暗殺を遂行できた、という事実だ。大聖堂は莫大な力の源であり、貴族たちの「支配する力」そのものと言える。世界で十カ所とない大聖堂は片手で数えられるほどのごく少数の貴族が所有しており、接続してその力を行使できるのは所有者たちと、限定的な接続を許された一握りの魔術師だけだ。大聖堂への接続権のために多くの魔術師たちは常に争い、時に命のやりとりまで行う。魔術師の序列——そして現在の世界の秩序は、大聖堂に接続できるか、またどれだけ多くの大聖堂に接続できるか、で決まる。大聖堂はいまや強力な魔術を実現するための一技術には収まらない、世界の秩序を形作ることわりの域にある。伯爵は暗殺の現場である『祖は巨人なり』に加えて『碧の因子』、『疾く往く者』という三つの大聖堂を管理する、世界で最も強力な魔術師だった。ということは、その伯爵をいかなる大聖堂の助けもなく倒した襲撃者たちは、この理を超えている、ということになる。教会関係者なら――いや、魔術師なら看過することはできない事態だ。
パラダイムシフト」
 シーナが無意識のうちにそうつぶやいていた。マリアがうなずく。
「ですが、これはなによりわたしたち、教会に対するテロリズムです。敬愛なる伯爵をわたしたちから奪った異教徒には、速やかに裁きの鉄槌がくだらなければならない」
 言葉の激しさとは裏腹に、マリアはまるで異国の終わらない内戦を語るかのように、どこか憂鬱げだった。彼女の横顔にさす影にさらなる暴力の予感を見て、シーナは少し震えた。
「信仰委員会は、カリン=カンダート様に襲撃者への報復を課しました。伯爵の護衛に失敗し、暗殺を許した罪への罰として」
「そんな」
 父親が死んだのはお前のせいだ、父親を殺した相手を殺せ——カリンは、そう責められているのか。
「カリン様は父親を殺されたんですよ? カリン様だって被害者です。そんなのおかしいじゃないですか」
「委員会は、伯爵という管理者のいない処刑者——カリン様の扱いに困っている、というのが正直なところなのでしょう」
 マリアはうんざりした態度を隠そうともせず言った。彼女も委員会の決定に満足しているわけではないのだ。彼女は教会の保守的な価値観そのもののような格好をしているが、それは彼女が選択した、教会の中で生きるための戦略にすぎない。その中身は徹底した実利主義者、科学者にして教会の権力闘争の参加者の中でも最も『醒めた』プレイヤーの一人である、というのがシーナの捉えたマリア=満月という女だった。
「それで、カリン様には精神拘束がかけられました。一ヶ月の間に襲撃者全員を処刑するべし、です。失敗したときは、伯爵邸の地下にあるカリン様のもとのお身体は処分されます」
 シーナは、そんな、と声に出すこともできなかった。。
 カリンの、本当の身体。本当の身体が伯爵の城の地下で厳重に守られていたからこそ、カリンは傷つくことを恐れない、無慈悲な処刑者でいられた。しかし今はそれがあだとなり、最悪の人質になってしまった。自死の精神拘束は、もしかしたら、拘束の魔術符号を解析して解除できるかもしれない。その可能性は皆無ではない。けれど、たとえ委員会を出し抜けたとしても、彼らが伯爵邸を——その地下のカリンの身体を押さえている以上、彼女の命は彼らの手のうちだ。
 だが、最悪なことにはまだ続きがあった。
「また、報復の完遂までカリン様が接続できる大聖堂は一つに限定されます」
「ちょっと待ってください。襲撃者は、どうやったのかは分かりませんが、正面から伯爵を倒したんですよ。そんな相手に大聖堂一つだけで挑むなんて、たとえカリン様でも自殺行為ですよ」
「だから言ったでしょう。委員会は、たぶんカリン様の扱いに困っている、と」
 これだけ材料があれば、委員会の意図は明白だった。シーナは自分の推測を否定する材料、より楽観的な解釈を浮かべようとしたが、無駄だった。
 つまり、委員会はカリンに死刑を下したのだ。そしてその執行者は、彼女の父の仇だ——。

 委員会の、教会の決定の理不尽さにめまいがした。シーナは立っていられなくなってソファにへたりこんだ。
「カリン様……」
 カリンのことを考えた。父を殺されたカリン。その責任を負わされ、実質的な死刑を下されたカリン。かつては伯爵と同じく三つの大聖堂に接続できたのに、今では二つの接続権を奪われたカリン。なのに、父親を殺したものを殺せ、それができないなら死ね、と命じられるカリン。
 そして、そのカリンは、さっきシーナになんと言ったか。
「刑の執行は襲撃者の足取りが掴めるまで猶予されています。カリン様の身柄は拘束されているわけではありません。だからカリン様はいま、旅の準備をなさっているのです」
「旅の準備?」
「伯爵を倒したほどの魔術師を大聖堂一つで相手にする必要があります。今のうちに打てる手は打たなければならないでしょう」
 シーナの脳裏に先ほどのカリンの姿が浮かんだ。これほどまでに追い詰められていても、カリンは俯いてなどいなかった。姫は、この状況でも戦うつもりなのだ。
「襲撃者の居場所が分かり次第、カリン様はそこへ向かうことになります。ですが、まず間違いなく国内ではないでしょう。私たち礼拝技術部は、バックアップしたくてもできません」
「では、さっきカリン様がおっしゃってたのは」
 マリアが静かに頷いた。
「判決では、カリン様に一名のみ同行を認めています」
 わたしに、ついてきてくれる?
 シーナの中でカリンの声がリフレインした。
「もちろん、あなたの意志が優先されます。暗殺の責任はカリン様と警備部にある、それが委員会の判断です。カリン様が下手人を処刑する。警備部がそのすべての予算を出す。それだけです。同行者はカリン様が選びますが、同行を強制する権利は誰にもありません」
 マリアはため息をついた。
「教会最強の処刑者たるカリン様にあっても、これは紛れもない死の旅です。貴女はカリン様の従者ではない。貴女自身のために選択することを薦めます」
 マリアの言葉を聞きながら、そしてカリンを襲った理不尽に怒りながら、しかしシーナの中では狂おしいほどの喜びがわき上がっていた。
 カリンは、ただ一人の同行者に自分を選んだ。死の旅の伴侶だ、誰でもいいわけがない。シーナはカリンにとって一番大事な存在ではなくても、あえて選んだ一人、特別な人間と思ってもらえたのだ。それにカリンは、シーナに命令しなかった。カリンとシーナは魔術道具の顧客と作り手という関係であっても、教会という組織における上下関係にはない。カリンは伯爵という教会の権力者の娘ではあるが、シーナに命令する権利は、公的にはない。私的には、ある、とシーナは思っていた。でもそれはシーナにとってのことで、姫は、ないと思ったのだ。だから「ついてきてくれる?」とシーナに尋ねた。自分の死への旅、その道連れとして、お前の命を危険にさらしても、わたしの力になってくれないか、と。上下関係や法律という後ろ盾のいっさいもなく。
 だからそれはどこまでいっても「お願い」で、もはや、懇願、と言えるのではないだろうか。
 カリン様が、わたしに懇願する——シーナの妄想は、あながち妄想でもなかったのだ。
 カリンがこの状況を切り抜ける——復讐を果たすために、わたしにいったいなにができるのか。それはシーナにはまだ想像もつかなかった。けれどシーナは、姫が自分に懇願した、という甘美な考えで頭が、胸が、いっぱいになった。
「決断はカリン様の出発までで問題ありません。よく考えることです。念のために言っておきますが、カリン様は無論、あなたが同行を拒否する場合を想定して別の人間も検討しているでしょう」
 シーナの様子を察してマリアが釘を刺した。
「非公式にですが、礼拝技術部はカリン様が出発するまでの間、全面的な協力を約束しました。この『雨の神』の件もいったん中断です。あなたもカリン様に同行するにしろしないにしろ、フルタイムでカリン様の支援にまわってもらいます。すぐに帰国しなさい」
 その後も事務的な言葉を連ねていたマリアは、シーナがその言葉をまるで聞いていないのを察するとため息をついて立ち去った。シーナはふわふわとした気分でマリアを見送ると、現実感の多くを喪失したままホテルに戻って荷物をまとめ、引き上げた。思考は熱に浮かされたようにまとまらなかった。姫に牙をむく理不尽のこと、教会組織と信仰委員会への怒り、伯爵を圧倒した襲撃者の魔術、カリンのために自分ができること、それに姫と自分で共有するすべての思い出のことを考えようとしながらも、なぜだか合唱団のあの小さなリーダーのことが頭を離れなかった。