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怪文書置き場

2015年あれこれ

映画4選+α

今年は映画当たり年のようで、10個選ぼうとすると難しかった。ので、これは!よかった!いい映画!!となったものを4つほど。見た順。内容は大体Twitterで書いてるかもね。

 ラブライブ!The School Idol Movie

『解散』の重さ、しかし引き継がれるものの確かさ。まるでゲームアイドルマスターである。というのは置いといて、μ’sの、あの伝説のユニットの解散の話を作品オリジナル概念である『スクールアイドル』のアンセムにするという試みは、劇場版という特別な場にこそ相応しい。

作中の秋葉原の風景がラブライブ!のポスターに溢れた現在のものに更新され現実に追いついたところから提示される、他校のたくさんのスクールアイドルたちと中央通りで歌って踊るSUNNY DAY SONGのスペクタクル!

全力で超越性志向、というのが超越的なものが価値を持たないアイドルマスターと全く違うところだなと思いました。

ブラックハット

ブラックハット ブルーレイ+DVDセット [Blu-ray]

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ハッキングものではあるけどそれ以上にマイケルマン作品というか。他の監督作と比べると、敵役とのエモーションの積み重ねは控えめでその代わり主人公たち同士の絡みに重点が置かれているか。では最後の対決にカタルシスがないのでは?と思いきや、衝撃の展開からジャカルタの祭りのど真ん中での決戦までの盛り上がりっぷりがすごい。決着もどこか寂しげながら、極めてドライな手触り。さすがマイケルマン。

前述の祭りでの決戦はもちろん、敵を追って地下道出口での銃撃戦(光と影のコントラスト!)、暴走した原発内への侵入あたりのビジュアルの鮮やかさが印象的。映画だ。

そういえば2014年のラッシュに引き続き、クリスヘムズワース主演映画が俺ベストに連続ノミネート。おめでとうございます。(?)

バクマン。

原作未読。好きになる作品とは思えなかったんだけど、るろうに剣心佐藤健神木隆之介で予告でも好感触だったので見たらとんでもなく面白かった。「漫画を描く」ということを「原稿用紙を睨みつけながらカリカカリカリひたすらペンでひっかく」ことと解釈する、身体性と音楽の映画。これは映画にする上での割り切りであるとは思うので、漫画を描くことやジャンプそのものに思い入れがある人には承服できないところがあるかもしれない。が、自分はそうではないので、とにかくめっっっちゃ面白かった。

主演二人はもちろん、染谷将太の怪演もよかった。というより染谷将太を初めて認識した。変でよいです。あとサカナクションを聴くようになりました。今のところNIGHT FISHINGがフェイバリット。

Wake Up, Girls! Beyond the Bottom

超越性を志向するラブライブ!、超越的なものが価値を持たないアイドルマスターに対し、WUGは超越的なものがない世界に思える。登場するだれもかれもが葛藤があり、過去を持つ。今までずっとヒリついていた志保が、I-1 clubのセンターを追われ福岡に移籍したからこそ「これでやっと対等に戦える」と吹っ切れていたのが特に好き。しかし志保はものすごく戦士キャラ(格闘家キャラ?)だなあ。

心が叫びたがってるんだ。。順当。面白かったしキャスティングも見事だったとは思うのだが、そろそろ岡田麿里と組まない長井龍雪監督の作品が見たいです。

コードネームU.N.C.L.E.。スパイものと言うと今年は007 Spectre、キングスマン、MIローグネイションもあったけど、この中であえて1本選ぶならこれ。オシャレで意外なほど上品な仕上がりのバディもの。続編希望。

バケモノの子 。俺TUEEなBLというだけでなく、師匠役の大人に対する態度が子供目線でよい。そしてキャラデザも可愛い。視聴者として大人と子供を行き来できる人には大変オススメ。

 

買ってよかったもの

スバル レガシィB4 2.0GT 5MT(BL5D)

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放課後のプレアデスTVアニメ版は最高でしたね。というのと直接の関係はないけれど、インプレッサGH3Dから乗り換え(中古)。今後MTの運転を身につける機会なんて減る一方、またターボ+AWD+MTの車も高値安定のWRX STIを除けば新しくてもBP/BL型レガシィ程度で、そのBP/BL型ももちろん生産されてないから市場にあるものも減る一方古くなる一方、という判断から中古市場をチェックし始めたのが確か4月頭ごろ。で、連休前にちょうど出物があったので購入。

GH3からの乗り換えだと、車重が110kg重くなっても馬力とトルクが軽く倍なので感動的に速いし、燃費も通勤に使って要所でぶん回してほぼ10km/lでこの辺りは文句なし。シートも調整範囲が広く、長時間運転での疲労が非常に小さい。2015年までで軽く8000km走ったけど、これからもしっかり勉強させてもらいます。

PIVOT 3-drive・α

夏休みに300kmオーバーのツーリングをこなすために購入。定速走行で燃費も向上するし、アクセル操作に気を使わなくて済んで疲労も激減。BL5のシートが身体に合うこともあって、300kmオーバーでの疲労感はGH3w/oクルコン比1/10というところ。素晴らしい。

 

2014年あれこれ

アニソン・声優CD 10選

最初に一言、内田彩/アップルミントと小松未可子/e'tuisと花澤香菜/25は聴いてないです。ハイレン"? 知らない子ですね。
なお順番はリリース順であって好き順ではないです。

ベルローズ - Rosette Nebula

Rosette Nebula

Rosette Nebula

プリティーリズムレインボーライブ挿入歌。戸松遥センターの声優ユニット、というと実はミネラル★ミラクル★ミューズもか(違う)。アニメ本編のドラマとの絡みと、センターに奉仕する度合いの強さでこちらを推したい。

Wake Up, Girls! - タチアガレ

タチアガレ!

タチアガレ!

劇場版Wake Up, Girls!挿入歌。映画は公開初日に2回見てしまった。正直他の作品の補助線にしてしまいがちだし、熱心なファンでもないのだけれど……。

悠木碧 - クピドゥレビュー

クピドゥレビュー(初回限定盤)(DVD付)

クピドゥレビュー(初回限定盤)(DVD付)

彼女がフラグをおられたらOP。曲も歌詞もMVもソロデビューから一貫してヘン、というのがやはり大事にされているなあと思う。オーディオ的にも破綻がなく、注目の声優の注目のアーティスト活動を堪能するのを邪魔しない出来でありがたいの一言。

μ's - Happy maker!

KiRa-KiRa Sensation!/Happy maker!

KiRa-KiRa Sensation!/Happy maker!

ラブライブ!2nd Season最終話挿入歌。力技アニメのラストに相応しい、躁的ですらある一曲。お祭りだ。作中作だ。ミュージカルだ!

THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS for BEST5! - メッセージ

THE IDOLM@STER CINDERELLA MASTER  We're the friends!

THE IDOLM@STER CINDERELLA MASTER We're the friends!

モバマスの人気投票記念新曲シングルのカップリング(でいいのかなあ)。アニメのPVでやられた。5人の歌声がそれぞれ特徴的で、一つ一つのパート分けに説得力を感じる。アニメ本編はPVとスタッフを見た感じアイドルマスターであることだけが心配だけれど、期待して待ちたい。

シド - ENAMEL

ENAMEL(期間生産限定アニメ盤)

ENAMEL(期間生産限定アニメ盤)

黒執事 Book of Circus OP。OPの画もカッコよかった。Bメロでザクザクしたリフが入るのが好き、とかそういう好きさですが何か。

寿美菜子/Tick

声優ソロアルバム部門。ロックよりダンス路線のが好きかもなので、ファーストよりずっと好感触だった。

流川ガールズ - 流川ガールズソング

「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」ヴォーカル・アルバム~アイドル、やってます! ~【DVD付き限定盤】

「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」ヴォーカル・アルバム~アイドル、やってます! ~【DVD付き限定盤】

ろこどる最終回挿入歌。ライブの画もよかった。二人の歌唱のタイトさを見せつけながらも盛り上がりの最高潮で魚心くんのことまで歌い上げる、ユニット二人に閉じているわけでも安易にファンを引き入れるわけでもない、最も好感の持てる距離感を備えたアニメアイドルソング。

分島花音 - world's end, girl's rondo

world's end, girl's rondo(TVアニメ「selector spread WIXOSS」新オープニングテーマ)(初回限定盤)

world's end, girl's rondo(TVアニメ「selector spread WIXOSS」新オープニングテーマ)(初回限定盤)

selector spread WIXOSS OP。OPの画もカッコよかった(2回目)。イントロが省略されないところからして好きだけれど、サビでユヅキの攻撃を受け止めるイオナのカットも最高です。抑制が効いていながらも実は分島花音一ダイナミックな展開の曲だと思う。大好き。

fhana - 星屑のインターリュード

星屑のインターリュード

星屑のインターリュード

天体のメソッドED。これはEDの画が本当にいい。ノエルのにぱって笑顔はこちらの顔も緩むので危険。たっぷりイントロを聴かせる演出も気が利いている。fhanaのメンバーはkeyのゲームが好きらしいので、もうそのまんまI'veサウンド後継って感じである。実はfhanaはこの曲まで全然ぴんとこなかったのだが。

映画 ベスト5

これは好き順。

1. ラッシュ/プライドと友情

F1レーサーの栄光と破滅。ニキ・ラウダの復活シーンが好きすぎる。

2. たまこラブストーリー

ただひたすらラヴい。もち蔵たまこが可愛いのはもちろん、かんなみどりもいいよね。

3. るろうに剣心 伝説の最期編

こんなカッコいい邦画アクションが見れるとはね。しかも役者もバッチリという。

4. マレフィセント

意外なほどにエグくも、ストレートに百合&エンパワーメント。マレフィセントさんのオーロラへの言動はツッコミ不在で落ち着かないレベル。

5. インターステラー

時効のつもりで言ってしまうと、シュタゲみたいでよかった。

買ってよかったもの ベスト3

1. BERMASのキャリーケース

[バーマス] BERMAS NEW PRESTIGE ファスナー49cm 60262-60 NV (ネイビー)

[バーマス] BERMAS NEW PRESTIGE ファスナー49cm 60262-60 NV (ネイビー)

30年生きて初めてキャリーケースを持ったのだけれど、恐ろしく便利。最大ペイロードの拡張は、それそのものの効果に加えて荷造りの難易度を劇的に下げる効果もあった。つまり、荷物の増加が気にならなくなったのでとりあえず持っていくか、という方向でさくさく荷造りを進められる。
特によかったのは、仕事用の大きめのブリーフケースをキャリーケースに入れ、普段使いの鞄を移動用に使って「出張前日に私服で移動→翌日スーツで仕事→週末私服で遊ぶ」という行動パターンが超・実用的になったこと。以前は無理やりボストンバッグを使った結果翌日は指や腕が痛くて大変だったけれど、それを恐れずに荷物を増やせるのは体力的にも精神的にも極めて有益だった。

2. LG電子 Nexus5

Xperia AXが我慢ならないほど不調になった&Nexus5は更新されなさそうだったので、発売からかなり経ったタイミングで購入。現在docomoのSIMで運用中。5インチの片手使いは多少持て余し感はあるけれど、それを上回る応答性と安定性。手のひらでフルブラウザ使って調べものができる! サクサクタスクを切り替えてコピペができる! バッテリーもガシガシ使って1日近く持つ! ……この程度のことが感動的に思えるほどXperia AXは酷かった。
不満点はモバイルSuicaが使えないこと。織り込み済みだったけれど、やっぱ便利だったし値引きも良かった。専用にガラケー持つかも。

3. ロフトベッド

ベッド置くエリアに机と椅子と小さな本棚を置ける。懸案事項の冬場の保温は、とりあえず電気毛布でカバーできそう。一人で組み立てるのはガチでしんどかったが、これで我がリスニングルーム兼ワンルームの基礎レイアウトが完成した。

STBTYR 1-1

1.
 ライフル弾のいくつかが目標を逸れてシーナ=トーネルへと襲いかかり、彼女のすぐ近くで甲高い音とともに弾き返された。彼女の身に付けたブレスレットに施された反応性防壁(リアクティブシールド)の呪文が発動し、彼女を弾丸から守ったのだ。シーナは防壁の発動によって魔力を引き出されるときの疲労を予期し、わずかに身をこわばらせた。しかし数秒経っても、目眩も虚脱感も彼女を襲わなかった。ぜんぜん慣れないな、とシーナは思う。防壁を発動させたのは、彼女の接続している大聖堂、『其は巨人なり』から供給された魔力だ。魔術に携わるものとしては人並み程度の魔力量しか持たない彼女でも、大聖堂の支援があれば運動エネルギーの大きなライフル弾もやすやすと防御できる。今の彼女は大聖堂という巨大な力に支えられ、守られていた。しかしそのことは、彼女にいくばくかの安心感も優越感ももたらしてくれなかった。
「わたしたちの用があるのはジョン=タレット少佐だけよ。下がりなさい」
 ライフル弾の目標だった豪奢なドレスの少女——カリン=カンダートが無感情に告げた。何丁ものライフルの斉射を受けて傷ひとつ受けず、向けられた民兵たちの殺意にまるで動じるところのない彼女は、教会がタレット少佐に差し向けた処刑者だった。
 少佐が隣国の教会支部を襲撃し、信徒八人と司祭を殺したのは二日前のことだった。周辺国の教会支部は直下の実行部隊による報復を図り、失敗すること二回。見かねた教会本部は、教会がかかえる最強の処刑者、『人形遣い』カリン=カンダートを派遣した。タレット少佐がこの崩壊し放棄されたモスクに潜伏していることは、教会本部が所有する偵察衛星と使い魔——魔力で動く一種のロボットだ——で容易に掴むことができた。その上で通常戦力でなくカリンを差し向けたのは、教会が処刑者とその魔術によって力を誇示することを望んだからだった、
 カリンは民兵たちが展開するロビーをゆっくりと進んだ。彼女に恐怖した民兵たちが再びライフルを乱射し、弾痕だらけの石の床や壁に新たな弾痕を穿っていく。しかし弾丸飛び交う戦場のさなかにあっても、カリンのドレスはそよ風を思わせるほども靡かない。彼女に殺到する弾丸は全て彼女の前で停止すると、重力に従って地面に落ちていた。シーナと同じ反応性防壁だが、周囲への影響を最小限に抑えるため対象のエネルギーを的確に奪う制御を組み込んだ、より高度な呪文の防壁だ。消費する魔力も一方的な斥力でただ弾き返すシーナのものよりずっと多い。この呪文は、魔力量に恵まれ、戦うための魔術を極めたカリンのための魔術として、魔術技師(スペル・アーキテクト)たるシーナがその指輪に埋め込んだものだった。シーナは、彼女の姫君——カリンの静謐な美しさが暴力の嵐によってより引き立つさまを想像しながら呪文を設計したが、今まさに思い描いた通りの風景を前にして、そこが戦場であることを忘れて見惚れた。
 弾倉一つ分の弾丸を撃ちこんでも少女一人の足を止められないことに混乱した民兵たちが、現地語でなにか叫んでいた。カリンは彼らがまだ戦意を失っていないことにいらだちながら、しかし気にすることなく進んだ。数メートルの距離まで近寄ってきた彼女に恐怖が頂点に達した民兵の一人が、カリンに向かって弾切れのライフルを振り上げ……そしてそれを振り下ろすことなく絶命していた。その胸は、いつの間にかカリンの手の中に現れた銀色の剣で貫かれていた。
「下がりなさい、と言ったはずよ」
 カリンが陰鬱なつぶやきとともに死んだ民兵から剣を引き抜いた。剣先の軌跡を追いかけた血の雫が、彼女の頬に、ドレスにかかる。剣は防壁と同じくシーナが作った魔術道具の一つであり、指輪の一つが変形したものだ。
 死体が石畳に倒れるのを引き金に、硬直していた民兵たちが一斉に攻撃が再開した。しかし民兵が振り回すライフルは、魔術で超感覚を得ているカリンには遅すぎる。戦うというよりドレスの豊かなドレープを見せつけるような動きで避け、反撃する。魔力を込められたカリンの剣は、彼女の細い腕と小さな手にあって人間の肉体を防弾装備ごとやすやすと切り裂く。殴りかかった三人の民兵は、カリンと一合と打ち合うこともなく一太刀のうちに切り伏せられていた。ライフルの弾倉を交換しようとした二人も、一人は装填する間もなく逆袈裟に斬られ、もう一人も向けられる銃口を避けるように回り込む足捌きからの突きの一撃に心臓を貫かれた。
「行くわよ」
 銃声が失せつかの間の静けさが訪れた廃墟のモスクに、シーナを誘うカリンの声が響いた。

 二人は少佐を追ってモスクを進んだ。対象の位置は、シーナの放った使い魔が捕捉・追跡して完全に把握している。一階の敵は先ほどのロビーの六人だけだったらしい。少佐は下が壊滅したことを把握したのか、上階の一室で待ち構えることにしたようだった。
 隠密行動を取るつもりのない二人に対し、階段で、廊下の奥で民兵たちが待ち伏せていた。しかし彼らの武装はカリンたちの脅威にはならない。二人は弾幕を向かい風ほども気にすることなく上階を目指した。カリンは剣のリーチまで攻撃を止めなかった民兵、挟み撃ちにして背後のシーナを狙う民兵は容赦なく倒し、逃げ出したものは追撃しなかった。
 少佐の潜む階に到着した二人を、傾きはじめた太陽の光が照らす。モスクの損傷は上の階ほどひどくなっていて、天井はその多くが崩れ落ちていた。奥の部屋です、と使い魔と交信していたシーナがカリンの後ろからそこを指さそうとして、逆光の眩しさに思わず顔を伏せた。瞼の裏に、カリンの首筋と肩、背中にかけた滑らかなラインがドレスを透けて焼き付いていた。シーナの声に少し振り向いたその横顔は、赤く染まりはじめた異国の夕空を切り裂くような輪郭ばかりあざやかで、表情は強烈な光が生んだ濃い影の中に沈んでいる。シーナは、ああ、姫、と心のなかだけで呼びかけた。
「子供がいる」
 カリンがつぶやいた。シーナは自分の身体が緊張で強張るのを感じた。それは銃口を向けられ、弾丸がすぐそこで弾かれたときよりずっと重く冷たかった。

 その部屋はほとんど元の形を維持しておらず、床の半分ほどが崩れ、そこから階下の石床が見えた。少佐はその部屋で三人の子供とともに二人を待ち構えていた。汚れ傷んだ野戦服が、額に、頬に刻まれた傷痕が、戦場そのものを思い起こさせる男だった。その目は長年の戦いで擦り切れたような憎悪と焦燥に鈍く燃えていた。

「止まれよ、教会の犬ども」
 少佐は、大きなナイフと一人の子供の手を握って立っていた。まだ十歳にもなっていないだろうその子は目隠しをされ、枷をはめられた両足の片方は石の床に、もう片方はぱくりと口を開いた床の穴の上で頼りなく揺れていた。その高さは数十メートル。この高さから下の石畳に落ちれば、まず命は助からない。
「動いたら、こいつを落とす。こいつらはみんな死ぬ。分かるな」
 もう二人の子供も、手を握られた子供のすぐ側で目隠しと手枷足枷を嵌められて立っていた。足枷からは太い鎖が伸び、忌まわしい因習のように三人の子供を一つに結びつけていた。
 シーナは息を飲んだ。あの男が手を離せば、三人の子供が死ぬ。少佐との——そして子供たちとの距離は、ざっと十メートル以上。この距離では、例え少佐を狙撃しても子供たちは助けられない。
「子供を解放しなさい」
 カリンがあくまで無感情な声で命令した。この場を支配しているのはわたしだ、といわんばかりの態度。
「お断りだよ、お前らが消えるまではな」
 カリンが言い返さないのを見て、少佐が嘲笑した。
「自分たちの教会が他所の国の人間を何百何千と殺すのは構わないが、目の前で子供が死ぬのはいやだ、ってことか? 教会の処刑者サマも俗っぽい感情をお持ちで嬉しいね。いや、嘘じゃないぜ、本当だ!」
 少佐が笑いながら子供の手を揺すった。やせぎすで細い木の枝のようなその子の腕が、されるがままに乱暴にしなる。
 わたしたちにあの子供らを助ける義理はない——シーナの冷静な部分はそう告げていた。その言葉に心の耳を傾けると、自分の思考ながらも嫌悪せずにいられないような考えが次々と溢れてきた。わたしたちにはどうしようもない。子供たちの命運はあのテロリストに捕まった時点で尽きていたのだ。いや、そもそもこんな内戦の絶えない国に生まれた時点で……。
 子供たちは目隠しされて状況は分からないが、雰囲気は伝わってしまうのだろう、口元が泣き声を抑えているかのように震えているのが見えた。
「そうだ、動くな」
 少佐がナイフをカリンに向けると、巨大な魔力がその切っ先に発生した。紛れもない魔術攻撃の兆候。ただの兵士であるはずの少佐が魔術を使う? 想定外の事態に、シーナは凍りついて動けない。だがカリンは、姫と呼ばれドレスを纏っていても処刑者であり、戦士だった。カリンがとっさに身をよじったその瞬間、魔力の槍が放たれて十数メートルを一直線に灼いた。その直線上にあったカリンの右腕が魔力の奔流に喰われ消し飛ぶ。
「姫!」
 カリンは攻撃の余波と片腕を失くした衝撃によろめきながらも、無事な方の手で断面を押さえて少佐を見返した。その姿に……その光景に、今度はタレット少佐が衝撃を受けていた。
「なに……? お前、人間じゃないのか!?」
 ぽたぽたと青い滴が落ち、染みこんだ石床が黒く湿る。魔力が喰いちぎったその傷口からは骨を模したセラミックのフレームが覗き、血液のようにその身体を巡るエーテル液が漏れていた。
「そうか、それで『人形遣い』ということか……!」
 魔力と親和性の高い精錬物を素材とし、現在の技術でできうる限り人体を模した、極限まで精巧な人間のレプリカ。それがカリンの操る『人形』、義体だった。
「おい、俺はお人形なんかに用はないぞ。お前、出てこいよ。本当のお前、生身のお前だ。近くにいるんだろ?」
 少佐が先ほどの動揺を隠すように、シーナたちを努めて見下すように言った。だがその取り繕った反応に、シーナは後ろ暗い悦びを掻き立てられるのを感じた。
「まさか。姫が戦場になどお出でになるわけがないでしょうが」
 シーナが抑えきれない興奮とともに吐き捨てた。少佐の卑劣さへの怒りと、この男が彼女の姫君をまるで理解できていないことへの優越感がシーナを駆動していた。
「お前ごときの処刑に、わざわざ姫が御手を汚すこともない。人形で十分よ」
 本物の姫――姫の本体、本当の身体は、遠く姫の城の地下深くで何重にも守られている。姫はそこから魔術でこの義体を動かし、教会の敵を処刑するのだ。実際に敵と戦うのは義体だから、壊れても交換が効くし、姫自身に危険が及ぶこともない。自分が傷つくことを恐れずに戦うことができる。
「ほう、じゃあこいつらにも見せてやれ! そのぶざまな姿をよ!」
 少佐は油断なくこちらを睨みながら、片手で乱暴に手を掴んでいた子供の目隠しをもぎ取った。目隠しの跡が顔に赤く残ったその子の瞳が、姫を——失くした片腕から青い血を流す姫の姿を捉えた。
 その瞬間カリンもその子の目を見返すと、自身を特徴付け、最も得意とする魔術を行使した。

 手を握られていた子供が軽く足を振ったかと思うと、その反動で身体を縮め、自分の手を掴んでいた少佐の左腕をひねった。たまらず手を離した彼が事態を理解する前に、手枷されたままの両手でナイフを奪って、そのまま少佐の胸に柄まで深々と突き刺した。人質として無力な存在とみなしていた子供の、鮮やかなまでに見事な逆襲。少佐は驚愕に目を見開き、胸のナイフを見つめた。
「な、に?」
 少佐が弱々しくよろめき、信じられないという表情で自分を刺した子供を見た。一瞬前まで人質だったその子供は突き立てたナイフを離すと、処刑者のように無感情のまま、少佐を穴に突き落とした。

 カリンが魔術を解いた。子供はうたた寝から目覚めたように身体を震わせると、ついさっきまで自分たちを虐げていた男が消えていることに困惑して周囲を見渡した。そして枷をはめられたままの自分の両手が返り血に汚れていること、男が下の階の石床の上で血まみれで倒れていることに気付いた。その子はただ無言で、自分の両手と男の死体を見つめていた。
 カリンの操作魔術だった。義体を操るように子供の身体を操ったのだ。子供が眠るように意識を失っている間、カリンがその身体を支配し、あの男に逆襲した。
 囚えられていた子供たちは兄弟だったようだ。シーナが目隠しと枷を解いてやると、まだ呆然としている弟を二人の兄が泣きながら抱きしめていた。

「行くわよ」
 処刑の途上と少しも変わりない声だった。背を向けて歩き出すカリンに、シーナも渋々それにしたがう。抱き合う三人の子供たちは、夕日で血のように真っ赤に染まっていた。

STBTYR 1-2

2.

 若い姿の両親が、子供の頃の、知恵も力もない頃のシーナを見下ろしていた。
「正直に、誇りを持って生きなさい」
「本家の連中はルノ族の誇りを捨て、自分を偽って生きているの」
「お前はそうなってはダメだよ」
 家の食卓で、暖炉の前で、小さな庭で、近所の路地で、賑わう市場で、父が、母が、そんな言葉を何度も何度もシーナに言った。正しく生きる。清く生きる。偽りなく生きる。貧しくとも、汚い金は使わない。本家の手は借りない。
 でも、なんで? シーナの幼い疑問に答えた両親の言葉が、彼女の一番古い記憶だった。
「神さまはいつもわたしたちを見ておられる」
「神さまはいつもわたしたちを守ってくださるのよ」
 神さまがいるから。神さまが見ているから。神さまが守ってくれるから。それが彼女の抱いたあらゆる疑問への、父と母の答えだった。神さま。それ以上の説明を必要としない、究極の答え。それが分かってから、シーナは二人の言葉にただ「はい」とだけ答えるようになった。

「お前は他のルノ族とは違う、特別な存在だ。お前には、長年ノア族に仕えたベクリー家の血が流れている。他のルノ族をただし導く者の一人だ」
 柱の陰、路地の奥まったところ、市場の物陰から、おじさん——父の兄、とシーナは記憶している——が顔を出してはそう言った。ベクリー家から絶縁された父の目を盗み、おじさんはことあるごとにシーナの前に現れては、シーナをベクリー家の一員として「教育」していた。お前を不当な扱いから解放してやる、本来いるべきところへ返してやる、と。なぜ、と聞くシーナに、おじさんはそれがベクリー家の伝統だ、宿命だ、と言った。その答えに、そうか、とシーナは納得した。それがおじさんの「神さま」なのだ。だからシーナは、やはり「はい」と答えるだけだった。

「裏切り者め」
「ルノの恥さらしめ」
 事実とは異なるが、こんな言葉が投げかけられるときはいつもまばゆい夕日の中だった、とシーナは記憶している。大勢の長い影たちが、嫌悪をむき出しにした目でシーナを、シーナの家族を、おじさんの家族をなじる。影たちの中には子供がいた。大人も。老人も。裏切り者、裏切り者、となじる彼らの輪が小さくなり、シーナの家を囲む。
 気付くとそこは、「本家」とシーナの両親やおじさんが呼ぶ屋敷のロビーだった。大きな壁の前に、父が、母が、おじさんが、ぼんやりとした姿の、ただ存在するということしかシーナの知らない父の両親が、おばさんが、いとこたちが並んで立たされている。彼らの顔なんてシーナは知らないのに、俯いた顔が恐怖に歪んでいるのが彼女には分かる。彼女の家族、親類の前に立つ影たちの手には、鉈と斧と小銃がある。現実の過去においてその出来事がこのように進んだかは分からない。シーナはその場にはいなかったから、この光景は全て、何年もあとに現場の写真を見たシーナの想像で構成されている。影たちが彼女の家族に銃を向け、引き金を引き、鉈を、斧を振り下ろしたとき、シーナ自身はそのとき実際にその場にいたように、学校の教室にいた。
 その部屋には学校中のノアが集められて、武器を持った影たちによって閉じ込められている。ノアの大人たちは怯える子供たちをなだめようとしながら、しかし彼ら自身も怯えきっている。シーナは自分より六つほど幼い女の子の手を握っている。その子はシーナの近所に住んでいるノアであり、シーナはその子のことを可愛らしい妹のように思っている。シーナは、そこに閉じ込められたただ一人のルノ族だった。
 影たちが教室に入ってくる。手を振り回し、怒鳴りつけ、ノアたちとシーナを壁に並ばせる。子供たちが泣き叫ぶ。大人が震える声で命乞いをする。シーナは手を繋いでいる女の子を助けたいが、なにもできない。恐怖と無力感で押しつぶされそうになって女の子を見る。女の子もシーナを見上げている。しかし目があったそのとき、その子は、震える声で歌い始めた。
 影が黙れと叫ぶ。銃床で女の子を殴る。そのとき、背広姿の男――カンダート伯爵だ――が教室に駆け込んできた。男は影たちに何か命令しながら彼らに割り込んでシーナの手を取ると、そこから連れだした。殴られた女の子は倒れたまま顔を上げ、シーナに何か伝えようとする。しかしシーナには、女の子がどんな顔をしているのか分からない。現実でもシーナは振り返るのが恐くてその顔を見ていなかった。
 そしてシーナが後にした教室の中で、銃声が長く響いた。シーナは手を引かれるままに学校の外に出ながら、恐怖で叫ばないように歯を食いしばっていた。

「——!」
 声にならない悲鳴を上げて、今、大人のシーナが目を覚ました。もちろんそこはルドノア共和国ではなく、サンディエゴのマンションの五階、シーナの自宅だ。夢から、己の記憶から逃れようと、一秒でも早く呼吸が落ち着くのを祈りながらベッドから這い出す。あの国を離れてから何度も見た悪夢だった。虐殺そのものからはカンダート伯爵の力で逃れることができても、彼女の両親や親族がそうでなかったように、シーナの心もやはりあの国の惨劇に囚われていた。
 シーナは、ルドノア共和国のルノ族の名家、ベクリー家の血筋に生まれた。ベクリー家は代々ノア族の支配層に仕えて利益を得てきた一族だ。一族は被支配層のルノでありながら、長年ノアの有力者から様々な便宜を受け、他のルノたちから恨みを買っていた。そんな一族のあり方を嫌ったシーナの両親は本家から距離を置き、トーネルの姓でありふれたルノの一家として生活することを選んだ。しかしルノたちの憎悪が爆発してルドノア中でノア族の虐殺が起こったとき、シーナの両親も結局ルノ族の裏切り者として、本家の人間ともども暴徒に殺されてしまった。その時虐殺の吹き荒れるルドノアを教会の権力で介入し、ぎりぎりのところでシーナを救ってくれたのが、ベクリー家の一番の交易相手であるカンダート伯爵だった。そうしてシーナはベクリー家ただ一人の生き残りになった。

 キッチンで冷水を飲んで、それからシャワーを浴びた。べったりとまとわりついた恐怖と不安は、それでも落ちない。空腹感はあったが、何も食べる気にならなかった。七時間ほどたっぷり睡眠を取ったというのに、ラボで仮眠したときのほどにも疲労が回復していない。何でもいいから少しでも胃に入れないと、と義務感じみた思いでコーヒーを淹れる。しかし固形物はクッキーを二つ食べるのが精一杯だった。シーナは食事を諦めて、さっさとラボに行くことにした。
 部屋着を脱ぎ捨ててクローゼットを開く。そこでシーナは一瞬めまいを感じた。普段着のカジュアルな服。何の変哲もないパンツスーツ。ひと通り揃えた、というだけの礼服。ラボの支給品の白衣。教会の人間としての正装である修道服。自分がなにものであるか宣言せよ。自己を規定せよ。そう命令された気がした。誰にか? もちろん、自分自身に、だ。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。見慣れた自分のワードローブに動揺することはない。いつもやっていることだ。考えすぎるな。惰性に身を任せろ。
 シーナは教会の一員であっても、魔術道具メーカーに端を発する技術部門の研究員だ。教会に吸収されたあとでもラボの流儀はメーカー時代と変わらず、カジュアルな服装が許されている。普段通りだ、と自分に言い聞かせながら、シーナは小奇麗なジーンズと無地のブラウスを取り上げた。今日は来客の予定は入っていない。予備の白衣と修道服はラボにもあるから、もし必要な事態になればラボで着替えればいい。そう考えると気分も少し落ち着いてきた。とにかく「選択」を遂行したことで、漠然としていた不安と恐怖が現実に対処可能な問題の一つになった気がした。
 手早く身支度を整えながらも、シーナはその手順の一つ一つを通してこの国に来てからの日々を振り返っていた。カンダート伯爵はルドノアから出国させたシーナにこの国の国籍を与えると、すぐに学校に入れてくれた。シーナはこの国では珍しくもないアウトサイダーの一人として、アウトサイダーなりに馴染んだ。両親と叔父と隣人たちに囲まれていたときと比べて、彼女の世界は格段にシンプルになった。誰も彼女を非・多数派の一人、あるいは伯爵に拾われた難民の子供の一人、という以上の扱いはしなかったからだ。無害な無関心と伯爵の厚い支援によって、彼女はまずまず品行方正、まずまず優秀な学生として成長した。そして今から十年前、彼女が十六歳のとき、彼女の人生の第二の転機が訪れた。カリン=カンダート。伯爵の義理の娘、教会最強の処刑人、そしてシーナが「姫」と呼んで慕うことになる、一人の少女との出会いだった。
 カリンと出会い、シーナは彼女の姫君のため、魔術——当時はまだ教会の支配力も小さく、教会以外の人間からは軽んじられた分野だった——に己の能力すべてを捧げると心に決め、大学へ進学した。彼女は二十一歳で博士号を取得し、共同研究先であるシノプティック・インフォシス——のちにその魔術応用部門がメイガス・マギテックとして独立し、二年前に教会に吸収される——の研究員として採用された。

 ラボはマンションから車で三十分ほど郊外へ走ったところにある。マンションの地下ガレージを出て人口密集地を抜けるまで、五分ほど。開けた幹線道路に入ったところで周囲の車がまばらになった。シーナは一気にアクセルを踏み込み、愛車に鞭を入れた。エンジンにより多くのガソリンと空気が押し込まれ、それを資源にして回転数が、速度が跳ね上がる。シーナの愛車は、今では珍しくなった、内燃機関のみを動力とするドイツ製のスポーツカーだ。市場では希少な趣味性の高い車種であり、同僚やマンションの隣人にはしばしば奇異の目を向けられた。しかしそれも彼女の魔術道具の研究者という肩書から連想される異常性の現れとして、むしろ容易に納得のいくものと受け止められていた。
 法定速度を大きく超えて巡航しながら、ときおり先行車に追いついては愛車の運動性能を発揮して追い越す。気付けば五十キロほど走り、ラボはすぐ近くに迫っていた。幹線道路を降りて速度を落としたとき、シーナは自分がだいぶ持ち直していることに気付いた。
 通常の業務時間まであと一時間ほどあった。ラボは自分の足音がうるさく感じるほど閑散としている。ドライブで昂った気分を鎮めながら、とにかくラボに来たのは正解だったな、と思った。まだいくぶん神経過敏だが、先ほどまでの不安感は消えていた。
 雑然とした共用の実験スペースを抜けた奥にある部屋の一つが、シーナに割り当てられた研究室だった。デスクは大量の紙の書類と電子ペーパーに埋もれている。不在の間に新しい書類がさらに積まれていた。それを上から手に取って確認していく。依頼した実験データのプリントアウト――結果が予想からずれている、つまり未知のパラメータが潜んでいるということだ。その報告書――内容の乏しさに投入人員の不足が露呈している。追加の人員を確保しなければなるまい。実験用具の広告――代わり映えしない。これはゴミ箱へ直行。回覧板――レクリエーションの誘いだが、いつも通り出欠表の不参加に○をつける。実験動物の納入書――ラットが二百匹に羊が五十頭、ラットはラボに、羊は現場に納入済み。新たな研究成果のための新たな資源だ。供給された予算と権限という資源を消費して成果というエネルギーを生み出し、彼女と彼女の研究は前進する。

 シーナのラボの中での立ち位置は、他の同僚とは大きく違う。予算や人員に対する権限は大きいが、リーダーとして研究チームを率いているわけでも、チームの一員として管理されているわけでもない。マリア=満月――研究所の上位組織である教会の礼拝技術部のボス直属、専任研究員。それが彼女の肩書だった。
「あなたには、一人でわたしの指示した研究と調査をやってもらいます。ただし、内容は一級の機密とします。通常の機密範囲に加えて、ラボの人間、教会の人間に一切漏らしてはいけません」
 一年ほど前、引き抜きで礼拝技術部付になったシーナにマリアが言ったことだった。
「評価してもらえるのは嬉しいですが、わたし一人でできることには限界がありますよ。こんな条件でろくな研究成果が上がるとお思いで?」
「予算と人事には十分な権限を与えます。手足にする人間は、相互に関連の薄い者を使ってこまめに入れ替えて使いなさい」
 反発したシーナにマリアはそう言った。マリアの徹底した秘密主義に不満がないわけではなかったが、マリアの命令するテーマはシーナにとってもスリリングだったし、裁量の拡大も大歓迎だった。以来シーナはマリアの私兵として動き、その秘密主義と権限の大きさから一部の同僚たちの反感を買うことになる。しかしそれが気にならないほど、シーナは今の仕事に満足していた。

 部屋の中央、作業台の上に、彼女の姫、カリンが横たわっていた。タレット少佐の攻撃で右腕をもぎ取られた、カリンの操っていた義体だ。専任研究員になってから、カリンの義体の管理もシーナの仕事になった。引き抜きを受けたときにさして期待せずに申し出たのだが、マリアはあっさりと了承してくれた。今思えば、リクルート時の調査で織り込み済みだったのかもしれない。経済的にも法律的にもシーナの後ろ盾はカンダート伯爵であり、カリンは伯爵の義理の娘だ。シーナと姫の繋がりは、たとえ隠そうとしたところで公的機関の書類と共同体の制度が伯爵を通していくらでも証明してくれる。
 シーナは手を伸ばし、カリンの頬に――義体の頬にそっと触れた。合成素材の皮膚が生き物とは明らかに違う冷たさを返してくる。シーナはその冷たさに安らぐものを
感じながら、鼻梁、まぶた、唇と指先でそっとそのラインをなぞった。姫自身は今、彼女の城の地下で眠っているか、予備の義体や普通の人形を使っているか、使用人の一人でも操っているかしていて、この義体と接続していない。だからこの目の前の義体という存在は、今はあらゆる意味で『カリンそのもの』ではなかった。
 義体は外観も構造も人体を模しているが、カリンの魔術なしでただ横たわっているだけだと、人間と似た形であることでかえって不自然さが目立った。義体自体には自身を駆動する動力がない――人形としては精巧だが、しょせんカリンの魔術を糸とした操り人形でしかない――から、自分を支える力を失った人体、つまり死体に近い。しかし脱力の仕方、重力への逆らい方に、どこか人体とは違うものであるという違和感があった。それは触れたときの感触、温度にも言える。目で見た感覚のまま、ヒトと、同族と、少女と思ってそれに触れると、その予断は完璧に否定されるのだ。似ているようで、決定的に違う。それが彼女にとってのカリンだった。そしてシーナは、そのことにこそ安らぎを感じていた。

 シーナは義体の管理システムに自己診断を命じた。即座に応答が返ってくる。中規模の異常――右上腕から先のフレーム、エーテル循環網から応答なし。ユニット制御系は右腕の主系統が応答なし。その他の部位は正常値を返している。異常は物理的に破壊された右腕周辺だけのようだ。右上腕は完全に欠損しているから予備パーツに交換するとして、右腕の被害は分解してみなければ正確な状況は分からないな。シーナがそう判断して、右腕の分解にとりかかろうとしたときだった。
《礼拝技術部、マリア=満月様からメッセージです》
 デスクの端末からの通知だった。他の人間からなら端末にメッセージを読み上げさせるが、相手がマリアでは誰かに聞かれるわけにはいかない。ため息をついて作業を中断し、デスクでメッセージを読む。建設中の大聖堂「海の神」でトラブル発生、現場で対応せよ――最優先で。大聖堂はシーナの一番の専門領域であり、この命令は研究者として本来の仕事といえた。マリアの命令は、いつも丁寧な表現でその要求に一切の譲歩と妥協を許さない。義体の修理は後回しにせざるを得なかった。
 始業五分前の鐘が鳴った。いつの間にか人の気配が増えていて、ラボは普段の喧騒を取り戻しつつあった。

STBTYR 1-3

3.

「では、彼女の独唱を皆さんに聴いてもらうことにしましょう。彼女がリーダーに相応しいことは、すぐに分かっていただけるかと思います」
 シーナの唐突な提案に、そのリーダー——十二歳ほどの少女だ——が戸惑っていた。何十人もの大人たちに囲まれて縮こまっていた彼女が、さらに身を小さくしている。合唱団の他のメンバーや教会のスタッフも釈然としない様子だが、シーナはその少女に微笑みかけて手招きした。
 建設中の大聖堂「雨の神(ジャガー)」で、リハーサルを繰り返しても計算通りの出力が出ない。本稼働までに日がない、早急に原因を特定して解決して欲しい——マリアの命令は、具体的にはそういうことだった。
 シーナたちがいるのは、雨の神のコアである大ホールだ。建設中といっても、一般的な内装工事や魔術的なモニタ装置の設置は完了していて、大聖堂の設備機能は既に完成している。問題は、その中に入る人間の側にあるようだった。
 リーダーの少女がシーナの前にやってきた。身長はもうシーナと同じくらい——大人と変わらないが、鼻や頬にはまだまだ歳相応の幼さが残っている。表情もたくさんの大人に囲まれる不安が見えた。シーナはそっと顔を近付け、その子の耳のすぐ近くでささやいた。
「あなたの歌、とても素敵よ。あなたの『いつも通り』なら、きっと皆さんもあなたの歌が好きになるわ」
 嘘いつわりのない本心かと問われると、自信を持って答えられないな。そう思いながらシーナが顔を離すと、少女の頬はわずかに上気していた。
「でも、わたし、自信ないです」
 かえって不安にしてしまっただろうか? シーナは思い切って、その子をそっと抱きしめた。腕の中で彼女が驚きで身を固くしたのが分かった。
「あなたがあなたのお母さまと一緒に歌ったとき、どんな感じだった? それを思い出して。神さまが見守ってくれる感じ、したでしょ?」
「神さま?」
「そう。神さまは、いつもあなたを見守っているわ。神さまを信じて」
 そうしたら、わたしがその神さまを掠め取らせてもらうから——シーナは自分の中の声がそう告げるのを無視しながら、少女を抱き続けた。彼女の身体から固さが抜けていく。頃合いを見計らって、シーナは身を離した。少女の表情には、まだ力みはあっても不安は薄れていた。考えすぎるな、と自分に言い聞かせながらシーナがそっと肩に触れてうながすと、彼女は振り向いて合唱団のメンバーに向き直った。合唱団メンバーやスタッフたちの間に緊張が走り、一瞬、大ホールがしずまりかえった。静寂の中にすっ、と小さく彼女が息を吸うのが聞こえたと思うと、大ホール一杯に彼女の歌声が響いた。
 あの少女を合唱団のリーダーに指名したのはシーナだった。合唱団で最年少の彼女は、教会の大聖堂でない、普通の合唱団ではまだまだ入りたての新人だった。ベテラン揃いの『雨の神』の合唱団のメンバーが、歌手としてはまだ若く技術的には未熟な部分も多い彼女を素直にリーダーと認めなかったのは想像に難くない。しかし「雨の神の合唱団のリーダーは、彼女以外あり得ない、とシーナは考えていた。彼女の持つ「神の御姿」こそが、大聖堂『雨の神』に最も相応しい、と。
 大聖堂は、人間の『祈り』による魔力の発生を極限まで利用する。根本の思想は、多数の人間を合唱などの一種の儀式を通じて同調し、一人一人の『祈り』を高純度で巨大な『祈り』とすることで効率よく大魔力を得る、というものだ。そのためには、合唱団全員が単一(コヒーレント)な神のイメージ、「神の御姿」を共有しなければならない。その核となるのが、合唱団のリーダー自身の「神の御姿」だ。リーダーがその歌唱を通じて自身の「神の御姿」を提示し、合唱団の一人一人が自身のイメージをリーダーのものと重ね合わせることで意識を同調し、祈りを束ねて純度を上げる。しかしこの手法では、純化した合唱団分の祈りの形はリーダーの持つ「神の御姿」に大きな影響を受ける。大聖堂として大きな出力を得るには、高効率な魔力発生に都合の良い「神の御姿」を持つ者をリーダーに据えること、そしてリーダーを中心にして合唱団、聴衆たち全員が調和する――ハーモニーが形成される必要があるのだ。
 彼女より十か二十は年上の人間ばかりの合唱団のメンバーたち全員が、彼女の歌声に感銘を受けていた。シーナはスタッフとモニタ装置を確認した。メインディスプレイには、ホールを上から見た映像とさまざまな色の光点が重ねあわせて表示されている。光点は一見カラフルなサーモグラフィ、つまり赤外線の放射を捉えたものに見えるが、これは人体の活動——微小な脳波や体温、心拍数などからある種のパターンを抽出し、魔力発生の兆候として表示したものだ。この映像から合唱団がうまく「神の御姿」を共有できているか、おおよそのところを読み取ることができる。
 このシステムを通すと、ホールの団員たちは身体の大部分が橙に、それ以外の部分がところどころ青や緑に発光しているように見える。中でも一際鮮やかな橙色で全身を輝かせているのがリーダーの彼女だ。彼女も、他の団員も、その光の色や強さが歌声に合わせて揺れるように変化していた。
 リーダーの少女の歌唱は徐々に熱が入り、いよいよ曲のクライマックスに差し掛かった。まちまちだった団員たちの光が歌の盛り上がりに合わせてリーダーの光に追従していく。色はリーダーの彩度の高い橙色に染まり、瞬くリズムもリーダーのそれに同期している。団員おのおのの「神の御姿」が、リーダーのイメージに統一されているのだ。
 計算通りの出力が得られなかったのは、合唱団が彼女をリーダーとして認めず、祈りの位相が揃わなかっただ。それでは理想的なハーモニーは形成されない。しかし彼らも改めてあの少女の独唱を聴く機会を作ってやれば、そして大聖堂の機能——自律神経に働きかけるガスと非可聴領域の通奏低音・通奏高音、照明を利用したサブリミナル効果を駆使した『緩やかな』トランス状態への誘導——の影響下なら、彼女の心の「神の御姿」の美しさに共振するだろう。予想通りにことが運び、仕事は終わったも同然だった。シーナはスタッフに任せてホールを出た。これで何度かリハーサルを重ねれば、計算通りの出力が得られるはずだ。

 大聖堂は、魔力発生技術の最先端だ。シーナは彼女の姫、カリンのため、より強力な魔術を行使するための魔術道具を作ることを志した。指輪、腕輪、イヤリング、ネックレス、ティアラ、それにドレス。魔力を発生・運用するための魔術道具、その研究の道でたどり着いたのが、CCM(大聖堂投射魔術)だった。CCM——その中核となる大聖堂(カテドラル)は現代において最も大きな魔力を生み出す思想であり、方法論であり、施設の規模にまで大型化した魔術道具だ。
 強力な魔術には、膨大な魔力という資源を必要とする。人間が自然に生み出し、蓄えておける魔力量——魔力容量には個人差が大きく、魔術符号の圧縮や魔術器具での活用といった工夫はこの個人差を埋められるほどの効果は得られない。だから、魔術の発展は魔術師個人の魔力の限界を超えるための技術の発展とほぼイコールだ。魔力を魔術師自身から切り離し保存する技術。保存した魔力を取り込む技術。鍛錬で拡張した魔力容量を他の人間に継承する技術。そして、複数の魔術師の魔力を合成する技術。
 大聖堂投射魔術——CCMは、連綿と続く魔力合成技術の一つの極みである。その名の通り大聖堂に人を集め、それを音響・照明・ガスを駆使して生理化学的にトランス状態に導く。その上でバイブルの朗読や賛美歌の斉唱で祈りの位相を揃えて合成し、大きな魔力とするのだ。魔術師は大聖堂と霊的に接続し、生み出した大量の魔力を使って大魔術を投射する。
 従来の魔力合成技術——儀式魔術が魔術師同士の同調によって魔力合成と投射が一体になっていたのに対し、CCMは魔力合成と投射が分離されている点、合成する魔力は投射を担当する魔術師以外から引き出す点が異なる。儀式魔術では魔力量に優れる魔術師同士で魔力を合成しようとしても、投射を担当する魔術師がネックになって霊的同調が不十分になり、魔力合成でのロスが大きくなってしまう。しかし人間の認知機構の解明と脳科学の進歩を応用した大聖堂は、多数の魔術師でない人間から魔力を引き出し、僅かなロスで魔力合成が可能だ。魔力発生における質から量への転換である。
 量——規模の力学が働くようになった後は、どの分野でも起こることが魔術においても同様に起こった。大聖堂の大きさの競争、保有数の競争だ。考案当初は歌手一人と聴衆数十人規模だった大聖堂は、実験レベルでは最大で合唱団百人、聴衆一万人もの規模にまで大型化した。ここ『雨の神』では合唱団二十人強、聴衆数五千人ほどであり、実用されたものとしては最大級になる。
 もちろん大規模な施設、魔術道具を作るのはどんな個人や集団にとっても容易ではない。大聖堂が考案されてからこの十年、世界中の有力者がより大きな大聖堂を建造し力を誇示しようとした。しかし規模の拡大とそれに伴う魔術レベル・コストの上昇により、淘汰は急速に進行した。今では、大型に分類される大聖堂——既存の大聖堂を持つ者に対して脅威となる規模の大聖堂を建造・運営できるのは、ごく少数の貴族たちだけになった。ここ『雨の神』も、所有者は教会の有力者であるカンダート伯爵だ。
 カンダート伯爵は、教会の最上位機関である信仰委員会の役員の一人であり、教会で――つまり世界で最も多くの大聖堂を所有している貴族だ。委員会役員になったのはつい去年のことだが、実効的な影響力はすでに委員会の中でも飛び抜けている。十年前まで小貴族の一人にすぎなかった伯爵が今の地位に至るまでの歩みは、大聖堂の発展の歴史とぴったり重なる。それは大聖堂は伯爵の投資により発展し、伯爵自身も大聖堂の生み出す力で地位と影響力を得てきたからだ。伯爵は最も早い時期から大聖堂に目をつけ、その恩恵を受けた貴族だった。そして伯爵がどこからかカリンを引き取ったのも、同じ時期にさかのぼる。

 カリンが伯爵の義理の娘になった経緯、教会の処刑人になった経緯は、シーナも聞いたことがなかった。気安い事情でないことは容易に想像できるから、突っ込んで聞けないのだ。伯爵もその周りの人間も口は重かったし、機密を匂わせられることもあった。処刑人としての適正を見出したからだろうか。処刑人のことは伯爵としても教会としても暗部であるのは間違いないから、シーナはいつからか教会の人間に疑問をぶつけるのは避けるようになっていた。
 先ほどのリーダーの少女はどんな境遇を経てここにいるのか、思い出そうとした。合唱団は選定にあたって思想と信仰を含む広範な身辺調査をおこない、その報告書もひと通り目を通したはずだった。細かいデータは思い出そうとするうち、マリアからアサインされた人員を使ってこっそり姫の過去を調べる、という誘惑に襲われた。いや、とシーナはすぐにそのアイディアを否定した。彼らは自分の思い通りに動かせても、結局マリアの命令が優先される。姫の調査なんてさせたら、マリアはすぐにそれに気付く。自分からマリアに弱みを握らせるようなものだ。教会への反逆すら疑われかねない。いや、そもそも本人に隠れてこそこそ過去を調べるような真似をするべきじゃないだろう。姫本人が話してくれるような信頼を得ることこそが重要であり……。
 発散気味の思考を持て余しながら、シーナが『雨の神』の事務室へ廊下を歩いているときだった。
「シーナ」
 まさかと思ってその声に振り向くと、そこにはカリンがいた。
「カリン様……?」
 カリンの深い黒のドレスの裾が、まだ小さく揺れていた。彼女は一瞬前まで足早に廊下を歩いていたのだ。黒いドレス。シーナには見慣れない姿だったが、白い肌とのコントラストが鮮やかで、カリンの鋭さのある顔立ちに似合っているな、と新鮮な驚きがあった。それにしても、とシーナは考える。黒い魔術道具はまだ作ったことがなかったし、黒が好きではなかったのは彼女自身もカリンも同じだと思っていた。そのカリンが、今日はいったいどんなきまぐれだろうか。……喪服? ふとシーナの脳裏に、その言葉が浮かんだ。
 カリンが小さく息を吸った。
「シーナ——わたしに、ついてきてくれる?」
 迷いのない言葉とまなざしだった。優雅悠然、誰を相手にしても堂々としたカリンの、いつもの態度だ。しかしシーナには、どこか違和感があった。その声には、まるでカリンの心の奥のほう、とても柔らかい部分をむき出しにしてそのままぶつけているような、あやうい響きがあった。だからだろうか。ありえないのに、そう想像することもシーナには後ろめたく思えるのに、カリンが、彼女に向かって懇願しているような、そんな気がした。
「シーナ」
 もう一度、カリンの声。今度は仄かに焦りか、苛立ちか——それとも羞恥?——が混じっている。シーナははっと我に返った。
「か、カリン様の御心のままに、どこへなりと……」
 舌がもつれてもどかしい。なんとか言葉を重ねようとシーナが口を開こうとしたときだった。しわがれた女の声がそれを遮った。
「貴女には選択する権利があります。貴女自身の信仰、生命に大いに関わる選択だ。
気安い返答は慎むことを薦める」
 伝統的な修道服を着た五十絡みの女——マリア=満月だった。教会の礼拝技術部部長、シーナの直属の上司だ。
「どういうことですか?」
 シーナの問いに、カリンは一瞬口を開こうとして、やめた。マリアが、私から説明いたします、と切り出した。カリンは小さく頷き、今度はいつものようにドレスの裾をほんのわずかに翻し、優雅に廊下を引き返した。
「場所を変えましょう。邪魔の入らないところへ案内しなさい」
 カリンの姿が見えなくなるのを待ってから、マリアが言った。

「伯爵——カリン様のお父上が殺されました」
 『雨の神』の来賓室の一つ、一番質素な一室に入った途端、マリアが告げた。
「礼拝中の襲撃でした。襲撃者は五人。調査中ですが、共和国のゲリラの線が濃厚です」
 シーナが言葉を失っているのに構わず、マリアが続ける。
「問題は手口——手段です。襲撃者たちは、伯爵の展開した防壁をなんらかの手段で無効化して致命傷を与えました。それも攻撃開始から数十秒という時間で、です。襲撃者たちは、当然ですが、大聖堂ないし外部の霊的拠点と接続しているとは考えづらい。彼らは、携行可能な魔術道具と、たった五人という人数で、大聖堂の支援下にある伯爵の防御を突破したのです」
 シーナはマリアが淡々と語る二つの事実に打ちのめされていた。
 まず、伯爵の死だ。伯爵は教会で最も強大な権力者の一人だ。その地位の重要性は、この十年で一国の元首と同等以上になっている。この暗殺は教会の秩序への最大級の反逆だ。教会の内部では他の貴族たちは伯爵が持っていた権益を巡って争いが起き、勢力図は大きく変わらざるをえない。それに伯爵は、占領下の共和国の統治にも影響力を持っていた。今後は共和国の統治戦略も大きく変わるかもしれない。
 もう一つが、襲撃者たちが伯爵の暗殺を遂行できた、という事実だ。大聖堂は莫大な力の源であり、貴族たちの「支配する力」そのものと言える。世界で十カ所とない大聖堂は片手で数えられるほどのごく少数の貴族が所有しており、接続してその力を行使できるのは所有者たちと、限定的な接続を許された一握りの魔術師だけだ。大聖堂への接続権のために多くの魔術師たちは常に争い、時に命のやりとりまで行う。魔術師の序列——そして現在の世界の秩序は、大聖堂に接続できるか、またどれだけ多くの大聖堂に接続できるか、で決まる。大聖堂はいまや強力な魔術を実現するための一技術には収まらない、世界の秩序を形作ることわりの域にある。伯爵は暗殺の現場である『祖は巨人なり』に加えて『碧の因子』、『疾く往く者』という三つの大聖堂を管理する、世界で最も強力な魔術師だった。ということは、その伯爵をいかなる大聖堂の助けもなく倒した襲撃者たちは、この理を超えている、ということになる。教会関係者なら――いや、魔術師なら看過することはできない事態だ。
パラダイムシフト」
 シーナが無意識のうちにそうつぶやいていた。マリアがうなずく。
「ですが、これはなによりわたしたち、教会に対するテロリズムです。敬愛なる伯爵をわたしたちから奪った異教徒には、速やかに裁きの鉄槌がくだらなければならない」
 言葉の激しさとは裏腹に、マリアはまるで異国の終わらない内戦を語るかのように、どこか憂鬱げだった。彼女の横顔にさす影にさらなる暴力の予感を見て、シーナは少し震えた。
「信仰委員会は、カリン=カンダート様に襲撃者への報復を課しました。伯爵の護衛に失敗し、暗殺を許した罪への罰として」
「そんな」
 父親が死んだのはお前のせいだ、父親を殺した相手を殺せ——カリンは、そう責められているのか。
「カリン様は父親を殺されたんですよ? カリン様だって被害者です。そんなのおかしいじゃないですか」
「委員会は、伯爵という管理者のいない処刑者——カリン様の扱いに困っている、というのが正直なところなのでしょう」
 マリアはうんざりした態度を隠そうともせず言った。彼女も委員会の決定に満足しているわけではないのだ。彼女は教会の保守的な価値観そのもののような格好をしているが、それは彼女が選択した、教会の中で生きるための戦略にすぎない。その中身は徹底した実利主義者、科学者にして教会の権力闘争の参加者の中でも最も『醒めた』プレイヤーの一人である、というのがシーナの捉えたマリア=満月という女だった。
「それで、カリン様には精神拘束がかけられました。一ヶ月の間に襲撃者全員を処刑するべし、です。失敗したときは、伯爵邸の地下にあるカリン様のもとのお身体は処分されます」
 シーナは、そんな、と声に出すこともできなかった。。
 カリンの、本当の身体。本当の身体が伯爵の城の地下で厳重に守られていたからこそ、カリンは傷つくことを恐れない、無慈悲な処刑者でいられた。しかし今はそれがあだとなり、最悪の人質になってしまった。自死の精神拘束は、もしかしたら、拘束の魔術符号を解析して解除できるかもしれない。その可能性は皆無ではない。けれど、たとえ委員会を出し抜けたとしても、彼らが伯爵邸を——その地下のカリンの身体を押さえている以上、彼女の命は彼らの手のうちだ。
 だが、最悪なことにはまだ続きがあった。
「また、報復の完遂までカリン様が接続できる大聖堂は一つに限定されます」
「ちょっと待ってください。襲撃者は、どうやったのかは分かりませんが、正面から伯爵を倒したんですよ。そんな相手に大聖堂一つだけで挑むなんて、たとえカリン様でも自殺行為ですよ」
「だから言ったでしょう。委員会は、たぶんカリン様の扱いに困っている、と」
 これだけ材料があれば、委員会の意図は明白だった。シーナは自分の推測を否定する材料、より楽観的な解釈を浮かべようとしたが、無駄だった。
 つまり、委員会はカリンに死刑を下したのだ。そしてその執行者は、彼女の父の仇だ——。

 委員会の、教会の決定の理不尽さにめまいがした。シーナは立っていられなくなってソファにへたりこんだ。
「カリン様……」
 カリンのことを考えた。父を殺されたカリン。その責任を負わされ、実質的な死刑を下されたカリン。かつては伯爵と同じく三つの大聖堂に接続できたのに、今では二つの接続権を奪われたカリン。なのに、父親を殺したものを殺せ、それができないなら死ね、と命じられるカリン。
 そして、そのカリンは、さっきシーナになんと言ったか。
「刑の執行は襲撃者の足取りが掴めるまで猶予されています。カリン様の身柄は拘束されているわけではありません。だからカリン様はいま、旅の準備をなさっているのです」
「旅の準備?」
「伯爵を倒したほどの魔術師を大聖堂一つで相手にする必要があります。今のうちに打てる手は打たなければならないでしょう」
 シーナの脳裏に先ほどのカリンの姿が浮かんだ。これほどまでに追い詰められていても、カリンは俯いてなどいなかった。姫は、この状況でも戦うつもりなのだ。
「襲撃者の居場所が分かり次第、カリン様はそこへ向かうことになります。ですが、まず間違いなく国内ではないでしょう。私たち礼拝技術部は、バックアップしたくてもできません」
「では、さっきカリン様がおっしゃってたのは」
 マリアが静かに頷いた。
「判決では、カリン様に一名のみ同行を認めています」
 わたしに、ついてきてくれる?
 シーナの中でカリンの声がリフレインした。
「もちろん、あなたの意志が優先されます。暗殺の責任はカリン様と警備部にある、それが委員会の判断です。カリン様が下手人を処刑する。警備部がそのすべての予算を出す。それだけです。同行者はカリン様が選びますが、同行を強制する権利は誰にもありません」
 マリアはため息をついた。
「教会最強の処刑者たるカリン様にあっても、これは紛れもない死の旅です。貴女はカリン様の従者ではない。貴女自身のために選択することを薦めます」
 マリアの言葉を聞きながら、そしてカリンを襲った理不尽に怒りながら、しかしシーナの中では狂おしいほどの喜びがわき上がっていた。
 カリンは、ただ一人の同行者に自分を選んだ。死の旅の伴侶だ、誰でもいいわけがない。シーナはカリンにとって一番大事な存在ではなくても、あえて選んだ一人、特別な人間と思ってもらえたのだ。それにカリンは、シーナに命令しなかった。カリンとシーナは魔術道具の顧客と作り手という関係であっても、教会という組織における上下関係にはない。カリンは伯爵という教会の権力者の娘ではあるが、シーナに命令する権利は、公的にはない。私的には、ある、とシーナは思っていた。でもそれはシーナにとってのことで、姫は、ないと思ったのだ。だから「ついてきてくれる?」とシーナに尋ねた。自分の死への旅、その道連れとして、お前の命を危険にさらしても、わたしの力になってくれないか、と。上下関係や法律という後ろ盾のいっさいもなく。
 だからそれはどこまでいっても「お願い」で、もはや、懇願、と言えるのではないだろうか。
 カリン様が、わたしに懇願する——シーナの妄想は、あながち妄想でもなかったのだ。
 カリンがこの状況を切り抜ける——復讐を果たすために、わたしにいったいなにができるのか。それはシーナにはまだ想像もつかなかった。けれどシーナは、姫が自分に懇願した、という甘美な考えで頭が、胸が、いっぱいになった。
「決断はカリン様の出発までで問題ありません。よく考えることです。念のために言っておきますが、カリン様は無論、あなたが同行を拒否する場合を想定して別の人間も検討しているでしょう」
 シーナの様子を察してマリアが釘を刺した。
「非公式にですが、礼拝技術部はカリン様が出発するまでの間、全面的な協力を約束しました。この『雨の神』の件もいったん中断です。あなたもカリン様に同行するにしろしないにしろ、フルタイムでカリン様の支援にまわってもらいます。すぐに帰国しなさい」
 その後も事務的な言葉を連ねていたマリアは、シーナがその言葉をまるで聞いていないのを察するとため息をついて立ち去った。シーナはふわふわとした気分でマリアを見送ると、現実感の多くを喪失したままホテルに戻って荷物をまとめ、引き上げた。思考は熱に浮かされたようにまとまらなかった。姫に牙をむく理不尽のこと、教会組織と信仰委員会への怒り、伯爵を圧倒した襲撃者の魔術、カリンのために自分ができること、それに姫と自分で共有するすべての思い出のことを考えようとしながらも、なぜだか合唱団のあの小さなリーダーのことが頭を離れなかった。

STBTYR 1-4

4.

 十年前、シーナが十六歳のころだった。シーナは、カンダート伯爵が自分と歳の近い子供を養子にした、と聞かされ、伯爵の城に連れてこられた。
 通された広間には、等身大の人形が何体も並べてられていた。どれも十代――シーナと、そしてこれから現れるだろう少女と似たような年頃――の、長い栗色の髪をした少女の人形だ。人形たちは服を着ておらず、球体になった関節が剥きだしになっている。整然と並べられながらもどこか打ち捨てられたような人形たちに、シーナは痛々しさを感じて目を逸らした。シーナを案内した使用人はシーナを通してすぐ退室したから、そこにいるのはシーナと人形たちだけだった。目的の少女はすぐ来る、と使用人は言っていたが、吹き抜けになった上階も人の気配はない。手持ち無沙汰で、シーナは消極的ながらも並んだ人形に近づいた。
 遠くからでは気付かなかったが、人形たちはほとんど同じ顔をしていた。鼻筋のとおった、鋭利さを感じさせるような整った顔だ。しかしその一つ一つは、似ていても少しずつ違っている。
(違う人間が、一人のモデルにして人形にした?)
 そう仮定して観察すると、一つ一つの人形から人形師の個性が読み取れた。生々しくも人形然とした印象のものは、あらゆる箇所のディティールに執着せずにはいられないような、神経質めいた造り手の気配を感じる。その隣のどこか柔らかい印象のものは、腕や脚の造形にあえて曖昧さを残すようにしているのだろうか。シーナに美術の素養があるわけではないが、モデルが同じだからか、かえって彼女にも一体一体の違いがよく見えた。そうして人形たち一体一体を眺めているうちに、シーナの視線は不意に釘付けになった。横顔のひときわシャープな人形だった。
 その人形が目に入った瞬間、造り手の存在は彼女の意識から消えていた。自然と手が伸び、頬に触れる。ひんやりとした滑らかな皮膚。耳の裏側でどくどくという自分の血の脈動をうるさく感じながら、少し屈んで、瞳を模した透き通ったガラス球とまっすぐ向き合う。ガラス球の奥の模様から目が離せない。人形と見つめ合うのはそのままに、シーナはごくりとのどを鳴らし、ポケットの中をまさぐって、指輪を取り出した。
 それはシーナが初めて作った魔術道具だった。埋め込んだ魔術はごく基礎的な魔力保存で、意匠も思いつきで三本のラインが刻みこんであるだけの、ほとんど玩具のような指輪だ。その頃魔術に興味を持ちはじめたシーナが、ただ教えられるままに作ったものだった。シーナ自身は、普段その指輪を使っているわけではなかった。愛着はあったからよく持ち歩いていたし、それはその日も同様だった。ただその指輪をはめるのが自分であることが、なんとなくしっくりこなかった。だから指にははめず、ポケットに入れたままにしていた。
 自分ではほとんど意識もしない動きで人形の左手を取り、取り出した指輪をその細い中指にはめていた。指輪が人形の指に綺麗に収まったその瞬間、そうか、とシーナは気付いた。わたしは、この指輪を誰かにはめてもらいたかったのだ。指輪の朴訥とした雰囲気は、人形の整った鋭い美しさにマッチしているとは言いがたかった。だがシーナの心には、なんともいえない満足感があった。自分の作ったものが、届けたいところにちゃんと届いた――そんな、報われたような気持ちだった。
「あなたが、シーナ=トーネル?」
 シーナに手を取られた人形がそう問いかけた。目の前の人形をただの美術品だと思っていたシーナは、驚きのあまりに硬直するしかなかった。
「わたしはカリン。カリン……カンダート」

 そう名乗ると指輪をはめられた人形は立ち上がって、そばの家具からテーブルクロスのような白い布をはぎとり、手早く身にまとった。
「あなたが、伯爵の……?」
「ええ。『これ』はただの人形、私の本物を似せて作った人形で、魔術で身体を借りているだけだけれど」
 人間そのもののようにしゃべり、歩く人形にあっけに取られていたシーナの問いかけに、人形――カリンはさらりと答えた。シーナは先ほどの感触を思い返す。あの頬の、瞳の感触。目の前にいるのは、確かに人形だった。カリンと名乗ったのが何者であれ、その人物がこの人形を操っているのは間違いない。
「操作魔術。操り人形のようなものよ」
 わたしにできる、唯一のこと。カリンはそう続けた。身体に巻きつけた布を押さえる仕草も、少し憂いの混じる表情も、ただの作り物とはとても思えない。人形を動かしているのが本人の言うとおりに魔術であれ、なにか電気的な旧来の科学技術であれ、その技術が卓越しているのは確かだ。だというのに、カリンはその技術を誇ったり見せつけたりするようではなかった。
「あなたのことはカンダート伯爵から聞いているわ。わたしの一つ下の女の子で、優等生だって」
 カリンは向き直ってシーナに笑いかけた。彼女が巻きつけている白い布は、清潔ではあっても衣類としては安っぽい綿の生地で、彼女自身とその笑顔の美しさには少しも釣り合っていない。まるで彼女がひどく不当な扱いを受けているようだった。シーナはそのことになにかひっかかるものを感じた。
「わたしはその……カリン様は、伯爵だけでなく教会全体にとって重要なお方だと聞きました」
「様づけはやめてほしいんだけど」
 シーナの言葉のほとんどの部分は聞き流し、カリンが苦笑する。
「ですが……」
 カリン様、と続けて口にしそうになって、慌ててやめた。カリンは義理とはいえ伯爵のご息女なのだから、シーナとしてはなにか敬称がないと落ち着かない。カリンの様子を窺うが、彼女は大して気にも留めていないように見える。手を握りしめたり腕をさすってみたり、『身体を借りた』という人形の感覚を確かめているようだった。
「ねえ、シーナさん」
 知らず見とれていたシーナは、カリンに呼びかけられてはっとした。
「図々しいことは承知しているけれど……。この指輪、わたしにくれない?」
「そんな指輪、カリン様にはとても釣り合いません!」
 シーナは慌てたあまり、叫ぶように言い返した。つたなくて華やかさに欠けるシーナの指輪は、まだカリンの指にはまっていた。彼女に釣り合わないという意味では、指輪もあの白い布も似たようなものだ。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「様、はやめてよ」
 カリンがむくれる。しまった、とシーナは反射的につれない返事をしてしまったのを後悔した。指輪をカリンに差し上げるのが惜しいなんてことはない。それに今あの指輪が彼女に釣り合わなくても、腕を上げていつかふさわしい指輪を作れるようになればいい。そう思っても、今、この場でカリンになにか素晴らしいものを捧げたいと思った。漠然とだが、彼女が不当に扱われている気がして、それを許せないと思った。そのとき、シーナの中でなにかがひらめいた。
「シンデレラ」
「え?」
 カリンが怪訝そうに聞き返す。シンデレラというのは、家族であるはずの者たちから疎んじられ、粗末な格好をさせられる、という単純な連想だった。しかし一度それを口にしてしまったら、なんだか陳腐で安易なたとえに思えてシーナは気恥ずかしくなってしまった。
「この指輪がガラスの靴で、あなたが王子様ってこと? わたしはもうお城に住んでいるのに?」
 カリンがおかしそうに笑う。自分が王子様だなんて、シーナにそんな意図は全くなかった。カリンの解釈はシーナの想像を軽々と超えている。シーナは自分が口にしてしまったことのあまりの恥ずかしさに、また後悔しそうになった。しかしカリンの笑顔は、人形として他人の手で刻まれたものとも、困惑やあざけりからのものとも違う、ただ楽しくて笑う、そんな笑顔に思えた。だからシーナは、顔を赤くしながらも大真面目な表情を作って、言い切る。
「本番用のガラスの靴は、わたしが腕を上げるまで待っていてください」
 そして、彼女にこれ以上ふさわしい言葉はない、という呼び名で彼女を呼ぶ。
「ね、姫」
 カリンのガラス球の瞳が、驚きで少し見開かれた。
「様づけよりはいいけれど、それはちょっと恥ずかしいわ」
 カリンも恥ずかしさを感じるのか、少し目線を泳がせながらシーナに歩み寄り、手を取った。
「その呼び方は二人のときだけね?」
 手を取られて硬直したシーナの耳元でささやくように言うと、カリンはシーナに倒れこんだ。シーナは慌てて抱きとめた。顔が、ただの人形と思って触れていたときよりさらに近くにあった。薄い唇がわずかに開いている。シーナはその吐息の熱さを予感した。しかし、温度どころか吐息のかすかな空気の動きもなかった。ごわごわした布の下から伝わる体温もない。さっき遠慮なしに触れてからその冷たさと違和感を知っているはずなのに、シーナの心はどうしようもなく揺れた。
 そのとき、誰かが上階から降りてきた。広間に並べられた人形たちそっくりだが、城の住人に相応しいドレス姿の少女だ。その少女――人形でない、生身のカリンが、人形を抱きしめて固まったままのシーナを見つめ、口を開いた。
「カリン=カンダートよ。これからよろしくね、シーナ」
 それがシーナとカリンの出会いだった。

 それからシーナは、たびたびカリンに会いに城へ出向くようになった。カリンが処刑者として城を空ける――外へ出るのは人形のため、文字通りの意味ではないのだが――ことが多くなるのは、二人の出会いより数年ほどあとのことになる。対して伯爵は、この頃はほとんど城を留守にしていた。
「これをどうぞ」
「今回はティアラね」
 差し出された銀の小ぶりなティアラをカリンが手に取る。シーナの魔術道具、その最新作だ。シーナは作品を作り上げるたび、少しずつ魔術道具開発の技術を上げていった。今回作ったティアラは、これまでの指輪やイヤリングといった小物の開発で得られた技術と知見の全てを注いで作った、自信の一品だった。
 ティアラを頭に載せたカリンが、鏡の前で感嘆の声を上げた。シーナはティアラが小さすぎて貧相に見えないか少し心配だったが、それは杞憂だったようだ。ちょこんと載ったティアラはカリンの顔の鋭さを和らげ、彼女に潜んだ可愛らしさを引き出している。
「シーナ?」
 はい、姫、と答えてシーナはクローゼットを開け、ティアラに合いそうな服を見繕う。しばし掛けられたたくさんのドレスを繰りながらプランを練る。イメージはすぐに湧いてきた。シーナの選んだ服をベースに、二人であれこれ服と小物の組み合わせを試しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
「本当によくお似合いです、姫」
 シーナの素直な言葉に、カリンも素直に微笑みで答える。
「それで、これはなにをイメージしてるの? かぐや姫……じゃないわよね」
「秘密ですよ」
 正解はいばら姫だ。今日は、淡いベージュを基調にくすんだ緑をアクセントにした合わせだった。
 カリンを姫と呼ぶことにしたあの日から、シーナは彼女のため、童話のお姫様をモチーフにした魔術道具を作った。人魚姫、親指姫に白雪姫。そして作った道具をカリンに届けたときには、こうして一緒に服もモチーフに沿ったものを選んで着るのが二人のお決まりになっていた。文字通り人形のように手足が長く、振る舞いも伯爵の娘らしさを身につけてきたカリンは、身に付けるものを絵本の挿絵に似せるだけで童話のお姫様のように見える。今日もシーナの記憶にある絵本のいばら姫が現実に現れたようだった。自分の作ったティアラと選んだ服を身につけていても、シーナはついその見事さに見惚れてしまう。
 その横顔を見つめるうち、シーナは小さな違和感に気付いた。
「もしかして、いつもと違う人形を使っていますか?」
 カリンは以前、等身大の人形はあの時シーナが指輪をはめた一体しか動かせない、と言っていた。それも動かせたのはあの日が初めてだった、と。しかし今目の前にいるのは、その人形とは別のものに見える。今日は広間に置いてあった他の人形を使っているようだった。
「ええ」
 答えは短い。カリンはばつが悪そうだった。
「最近、他の人形も動かせるようになったの」
 自分に似ているもの、「似ていると思えるもの」しか操れない、とカリンは言っていた。人形がヒトに近づけば近づくほど、かえって違和感が増して操作に障害が起きるのだそうだ。人形の外見がコンピュータグラフィックでいうところの不気味の谷を越えてヒトに近づいても、そのヒトをカリンが「自分と似ている」と思えるようになる、第二の谷を越えなければ操ることはできない、ということだ。だから伯爵はカリンに似せた人形を何通りも用意して、カリンの自己イメージに近いカタチを探し当てようとしていた。そして第二の谷を超えたのは、あのシーナが指輪をはめた人形の一体だけだと思っていた。
「そうだったんですか」
 しばらく沈黙が続いて、シーナは間の抜けた答えだったな、と少し後悔した。なにか気の利いたことを言おうとしたが、いい言葉を思いつく前にカリンが口を開いた。どこか重たい口ぶりだった。
「ごめんなさい、騙すつもりはなかったの」
「騙す?」
「いつもと違う人形であなたと会っていること」
「騙されたなんて思っていません」
 気を使っているわけではない。カリンの言っていることが上手く飲み込めなかった。
「本当のわたしでは会ってないことも?」
 そういえば、とシーナは気付いた。初めて会ったあの日以来、姫本人とは会っていない。しかしシーナは今までそれを気にしたことはなかった。初めて会ったのが人形だったからだろうか。シーナは自分の中で疑問を反芻してみて、それは意味のない問いだと結論づけた。
「姫は、姫ですから」
 人形を自分の身体そのもののように操ることができるのはもちろん、今のお姿のように、いろいろな童話のお姫様のようであることも含めて。シーナの憧憬の混じったその言葉に、カリンは表情をゆがめた。
「いいえ、わたしはあなたを欺いているわ」
 そしてそれはきっと、あなたにだけじゃない――。カリンが漏れそうになる嗚咽を抑えながら続けた。
 わたしはあなたを欺いている。他人を欺いている。その想い、罪悪感に一瞬懐かしさを感じたあと、シーナの脳裏でルドノアでの日々が生々しく蘇った。本家の慣習から決別した自分。ベクリーの家系に連なる人間の一人である自分。ルノ族の裏切り者である自分――。ルドノアにいたときはずっと感じていた、あの息苦しい感覚。それを今まで思い出さずにいられたのは、この国での暮らしと、そして――。
「姫のおかげだったんですね」
 え、とカリンが戸惑っていた。
 カリンのどこかに、自分はおのれが抱えた不安に似たものを感じ取っていたのかもしれない。だから自分の不安のことは意識しないでいられたのかもしれない。
「わたしの話を聞いてもらえませんか?」
 自分の過去についてのことは、カリンは伯爵からもう聞いているかもしれない。けれどシーナは自分からカリンに話したかった。ただ彼女に聞いて欲しくて、シーナは語り始めた。あの国での暮らしと、突然巻き込まれた、あの途方もない暴力について。
「少し長い話になります――」

 カリンはなにも言わず、ただシーナの話が終わるまで、じっと耳を傾けていた。三十分か一時間経ったあと、シーナが話を締めくくったとき、彼女はいつの間にかカリンと手をつないでいた。いつも他人を欺いている気がする――そんな罪悪感と後ろめたさが、知らないうちに二人をつないでいたように。
「きっとわたしと姫は、似た物どうしなんです」
 シーナの言葉にカリンはつないだ手に力を込めて返した。シーナはその手の冷たい感触に、かつてはあれほど絶対的に思えた不安が、今ではもう立ち向かって打ち勝てるものなのだと確信できた。シーナは目を閉じた。自分の体温がカリンの冷たい手に溶けていくようだった。

 それからほどなく、城を空けがちだった伯爵が城に戻ってきた。同時にカリンは操作魔術を前人未到の領域にまで引き上げ、教会の処刑者として各地に派遣されるようになった。そして彼女が教会最強の処刑者として認められるまで、それほどの月日はかからなかった。

STBTYR 1-5

5.

 礼拝技術部がカリンの次の指令を全面的にバックアップすると決まったことで、シーナの追加人員の要請はかつてないあっけなさで承認された。おかげでこの一週間でシーナの組んだ実験プランは予定より大幅に前倒しになった。マンパワーの集中投入により、真の問題を隠していた雑多な可能性、疑わしい仮説の大群は一掃された。残されたのは、彼女の取り組むテーマ――大聖堂の高出力密度化――の手法が持つ、本質的な難しさだけだった。
 シーナもこの一週間、ラボに詰めてフル回転で実験と解析の指揮を取っていた。
しかしここから先は、もう一週間や一月程度のスケールに収まらない本当の長期戦だ。一旦休息を取る必要がある。そう判断しながらも、あと少しだけ、とシーナは打ち出した書類をもう一度頭から読み直した。教会が持つ大聖堂の合唱団、そのリーダーたちの「神の御姿」に関するデータだ。
 「神の御姿」。大聖堂による魔力発生において最も鍵となる概念、人それぞれが持つ信仰の姿だ。大聖堂は優れた一つの「神の御姿」で多くの人間を束ねることで莫大な魔力を生み出す。個人の「神の御姿」と他人のそれには相性があり、誰か一人の「神の御姿」で束ねることができる人数には限りがある。これが今の大聖堂の構造的な限界だった。
 しかし合唱団のリーダーたちの持つ優れた「神の御姿」からそれらの共通点を抽出し、ある種の均質化を施した普遍的な「神の御姿」を構築できれば、より多くの人間を束ね、より大きな魔力を得ることができる。大聖堂のさらなる大規模化、いわば大聖堂における量の向上を目指したアプローチだ。普遍的な「神の御姿」の構築は、研究所が現在最も力を入れている研究だ。
 それと対照的に質に着目しているのが、シーナたちだ。「神の御姿」――人間の精神活動、それを生み出す脳という器官と魔力発生のメカニズムを解き明かし、魔力発生そのものをより効率化する。質のアプローチはまだ大きな成果が上がっていないため研究所ではあくまで主流グループの「量派」に対するオルタナティブとして扱われているが、どちらも「神の御姿」――人間の信仰を本質と捉えているのは変わらない。この二つのアプローチは決して排他的なものではないはずだ。究極の答えは、二つの統合にある。シーナはそう確信していた。

 結論を再確認し、しかし書類を読むシーナの思考はまとまらなかった。「神の御姿」――信仰のカタチ。『雨の神』リーダーの少女のデータを確認しながら、彼女の「神の御姿」を思い出す。シーナはそれを利用するため、彼女を励ました。大聖堂のため、その所有者である伯爵、教会の権力者たちのために。
 データは、あの少女の「神の御姿」はただ多くの魔力を発生するだけでなく、外因によるゆらぎが極めて小さいことを示している。伝統への素朴な愛着か、地続きの人間関係を経由する経験か――彼女はそれだけ確固とした信仰のイメージを持っている、ということだろう。この特徴は他の合唱団のリーダーたちにも共通する。大聖堂では、他の合唱団員の「神の御姿」を、リーダーのものに共振させ従わせなければならない。他人の信仰に影響を受けてリーダーの「神の御姿」が乱れると、魔力の発生効率が落ちてしまう。だからゆらぎのない「神の御姿」、確固とした信仰は、大聖堂と教会にとって代替できない価値があるのだ。

 では、自分自身の「神の御姿」は? シーナはそう自分に問いかけた。両親の志向した、素朴で伝統的なルノ族の暮らし。おじさんたちが崇拝していた、ノア族に仕えるベクリー家。どちらもあの虐殺と戦争の炎の中で灰と化してしまった。シーナたちを襲った部隊は、彼女がルドノア共和国から脱出してまもなく介入を開始した多国籍軍空爆で全滅したと聞いている。自分たちに向けられた彼らの憎悪と暴力はあれほど凄まじく思えたのに、よその国の軍隊がふるう暴力の前では無力だったのだ。自分の半生を省みて、シーナは自分の問いにこう答えざるをえなかった――わたしには、信仰なんてない、と。

 では、姫は? 姫は教会の命令で何人もの人間と戦い、処刑してきた。彼女の「神の御姿」は、教会の命令、教会が維持し広めようとする秩序だろうか。いや、とシーナは否定した。姫が教会の秩序を絶対視していたとも、その命令による殺しに個人的な価値観から意味を与えていたとも思えない。
 あるいは、自身の魔術が彼女の信じる拠り所なのだろうか。姫は、城の奥から他の人間や人形を操って教会の敵を処刑する、傷つくことも死ぬこともない無敵の処刑者だ。それを可能にする自身の操作魔術のことは、信じているのではないだろうか。しかし、それはありえないことをシーナは確信している。かつてカリンがまだ処刑者ではなかった頃、ごっこ遊びのために城へ通っていた日々を思い返した。姫にとって、操作魔術は欺瞞の意識と切り離せない。そんな後ろめたさに囚われず、自身の持つ力はすべて姫の意思で、姫自身のためにふるえればいいのに。そう思ったが、シーナが姫と心の一番深いところで共有できたのもその欺瞞の意識だった。
「姫……」
 姫は父親である伯爵を殺されたうえ、父の仇討ちという名の死刑を宣告された。城の奥で守られていた元の身体も今では教会の手の内にあり、命令に逆らう余地はない。だが姫は、この理不尽に屈していなかった。姫には何か確かな拠り所がある。シーナは、そう漠然と確信した。
『わたしに、ついてきてくれる?』
 あの時の姫の声が脳裏から離れない。姫は、誰よりも先にシーナを頼ってくれた。それに応えたいと思う。シーナにそれ以外の選択肢はない。姫のためなら命も惜しくない――その気持ちに自棄な気分、後ろ暗い悦びがともなうのを自覚しながら、カリンとの旅のことを考えると、シーナは気分が浮ついた。仇の戦闘力の情報も、打倒する手段も、まだ見つからない。しかしシーナにとっては、カリンが自分を頼ってくれたという事実ばかりが重大だった。

 ため息が漏れた。集中できない。休息か、少なくとも気分転換が必要だった。まもなく日付が変わる。コーヒーでも飲んで、それから一旦家に帰るか考えよう。そう決めて自分のラボを出ようとしたとき、シーナは部屋の外がやけに騒がしいことに気がついた。
「なに?」
 共用の実験スペースに人だかりができていた。もう深夜で、ラボに残っている研究員は多くないはずなのに、だ。シーナは吸い寄せられるように人だかりのほうへ向かった。誰かが操作したのか、実験スペースで一番大きいモニタに映像が写った。
 画面に写っているのは、三人の人影だった。全員顔を隠し、どこか見覚えのある、簡素な民族衣装を身につけている。シーナはモニタを見上げながら、背筋から全身に寒気が走り、自分の思考の奥の奥からざわざわとしたものが迫ってくるのを感じた。
『高慢な教会の侵略者たちに宣告する』
 三人の誰かが、若い女の声で言った。
『ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、われわれ『ルドノアの子どもたち』が教会の侵略者たちに無慈悲な死を、侵略の象徴たる大聖堂に徹底的な破壊を与える』
 シーナは自分の身体を抱きしめた。手のひらが冷たい。震えが止まらない。
『これは脅しではない。先日、侵略者の貴族、カンダートを殺したのはわれわれである』
 頭の中で銃声がこだましている。鉈の刃が鈍く輝いている。
『われわれには、侵略者たちを打倒する力がある。抵抗は無意味である』
 産声が聞こえる。あのとき、炎の中、灰の中から生まれたものの産声が。
『繰り返す。ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、教会の侵略者たちを殺す。侵略の象徴、大聖堂は破壊する。われわれはルドノアの子どもたちである』
 中央の小柄な人影が顔に巻いていた布を掴むと、それをおもむろにはぎ取り、自身の顔をカメラにさらした。シーナは、その人間を知っている。顔を見るのは十三年ぶりだが、確かに面影がある。
『わたしはワーグ=リフェルド。『ルドノアの子どもたち』のリーダーだ』
 シーナがルノ族の過激派に襲われたとき、一緒にいたあの女の子だ。手を繋いでいたのに、あの惨劇の場に残してしまった女の子。
 彼女の名は、ワーグ=リフェルド。
 シーナの頭の中で、銃声と歌がこだまする。殴られて倒れた幼いワーグが、シーナを見上げて何か言おうとする。耳をふさぐ。銃声と歌声は消えない。目をつぶる。炎がシーナと両親の家を、おじさんの屋敷を、シーナとワーグの学校を焼き、世界を赤く染めている。
 シーナは気を失った。

「ねえ! そのうた、おしえて!」
 家の手伝いで羊の世話をしていたシーナに、舌足らずな声がかけられる。五つか六つくらいの小さな女の子がにこにこと笑っている。鼻歌を聞かれたのがこんな小さい子どもでよかったと思いながらも、初めて見かけたこの子にどう相手にするか、シーナは戸惑う。
「そのうた、なんていうの?」
 女の子は物怖じせずにシーナに近寄る。距離が子供の手も届くほどまで縮まる。
「『きらきら星』」
 つい気圧されながらシーナが答える。シーナを見上げるその子は、きょとんとした表情でまっすぐ彼女の目を見つめている。シーナは上手く伝わらなかったのかと思って、もう一度曲名を口にしようとする。
「きらきらぼし!」
 弾けるような声にシーナは驚いて身を引く。なにかに引っかかった感触。いつの間にか女の子に服の裾をつままれている。
「わたし、ワーグ」
 さっきのにこにこ顔よりさらに嬉しそうな、真昼の太陽の光のような笑顔。つられて顔がゆるんでしまい、シーナは慌てる。
 こうして二人は出会った。シーナが十三歳の夏のある日のことだった。

 気がつくと、シーナはラボの医務室のベッドにいた。
「目が覚めましたか」
 マリア=満月だった。シーナは起き上がろうとしたが、自分の身体の重さに勝てなかった。全身に疲労感がある。
「しばらく安静にしなさい。姫のことも、あの犯行声明のことも忘れなさい」
 そういうわけにはいかないだろう。悪態をつこうとして、声を出すのも難儀することに気がついた。思った以上に消耗していた。
「情報収集は任せなさい。今のあなたにできることは、休息を取ることぐらいです。そのくらい分かっているはずですが」
 リーダーのことはわたしが知っている、情報収集にもわたしが必要だ、そう言い返してやろうとしたが、マリアはさっさと部屋を出ていってしまった。シーナは、くそ、と声にならないうめき声をあげた。カーテンから淡く光が漏れている。もう夜は明けたようだ。まぶしいな、と目を閉じると、抵抗する間もなくまた眠りに落ちた。

 はっと目を覚ますと、カーテンから漏れる日差しがすっかり強くなっていた。たっぷり睡眠を取り、体力はいくぶん回復したようだ。時計を見やると、ちょうど正午をすぎた頃だった。
 サイドテーブルに、数枚の書類が置かれていた。
「『ルドノアの子どもたち』……」
 CIAの印の入った調査報告書だった。マリアだな、とシーナは思った。どういう経緯かはまったく分からないのだが、マリアは諜報関係に人脈がある。マリアはこれまでも信仰委員会以上の情報をどこからか手に入れていたことがあった。
 シーナはベッドに腰掛け、報告書を読み始めた。『ルドノアの子どもたち』。初めて活動が確認されたのが六年前。名前の通り、ルドノアの虐殺で孤児になった子供を中心とした組織と言われている。犯行声明の印象では民族集団の武装組織だったが、一種の傭兵集団だとされているようだ。正規軍の代替・補助戦力のような扱いではなく、暗殺と破壊工作のスペシャリストとして主義や民族によらず他の武装組織の依頼を受けて活動している。組織の名前も顧客の活動や内部の情報提供者から知られたのであり、『ルドノアの子どもたち』が独立して自身の存在をアピールしたのは、つい昨日のカンダート伯爵の件のみだった。
 組織の創立者でもある現在のリーダーは十代の少女だ、という情報は複数のルートで報告されていたが、どれも情報の信頼性に疑問があって未確定とされていた。だが昨日教会に送りつけられたあの犯行声明で、リーダーについては明らかになった。ワーグ=リフェルド。ルドノアにいた頃のシーナの一番の友達であり、妹のような存在であり、だがあの日、シーナは彼女をあの国に残して逃げることしかできなかった。

 自分の七つ下だからワーグは今十九歳だ、と計算し、シーナはルドノアを出国してからの十三年の歳月に思いを馳せた。自分がこの十三年間、アメリカで学校に通い、姫と出会い、魔術を研究してきた間、ワーグはどんな人生を送ってきたのか、今日まで考えたことはなかった。あの占拠された学校でワーグは死んだと思っていたからだ。それを疑ったこともなかった。シーナは、ワーグがあの日を乗り越え、どんな形であれ今まで生き延びていたことを肯定的に捉えようとした。しかし、できなかった。

『ただちに世界中の大聖堂すべてを破棄せよ。さもなくば、教会の侵略者たちを殺す。侵略の象徴、大聖堂は破壊する』
 あの映像のワーグの言葉に、昔の彼女の面影、あの太陽のような笑顔の名残を探したが、見つかるべくもなかった。容易なものではないであろう十三年間が、かつての彼女を破壊してしまったのだ――そう思って、シーナは喪失感と恐怖で腹の奥が冷たくなった。
 今日までのワーグの歩みを想像しようとした。どうやって、あの日、あの虐殺を生き延びたのか。多国籍軍の介入で激化した戦争から逃れたのか。戦う力を手に入れたのか。なぜ、『ルドノアの子どもたち』を作ったのか。教会に牙をむくのか。大聖堂を破壊しようとするのか。――伯爵を殺したのか。疑問はとめどなくあふれ、数えきれない。
 しかし、では、自分はなぜ生き延びることができたのか。伯爵が間一髪のところで助けに来てくれたからだ。なぜ伯爵が来てくれたのか。それは、ベクリー家と伯爵の間に交易関係があったからだ。つまるところ、自分が生き延びることができたのは、ただの偶然、幸運が積み重なった結果だった。伯爵という国外の有力者と繋がりのある家に生まれた幸運。でありながら本家から距離を取っていたために、裏切り者の一族として家を襲われず、伯爵の救援が間に合った幸運。
 あのとき、あの国で、たくさんの人間が無為に殺された。殺されずに済んだ、運に恵まれた人間たち。わたしはその中の一人なのだ。わたしも、そしてワーグも。けれどわたしは出国できても、ワーグはあの国に留まるしかなかった。きっとほんの少しの運の差がわたしとワーグを分けたのだ。なにかちょっとしたことの掛け違えで、わたしがあの国に留まることになっていたかもしれない。
 ぶるり、とシーナは寒気に震えた。

 シーナは、伯爵の力であの国を出ることができなかったら、と想像してみた。学校の襲撃を乗り越えられたとして、その後の絶え間ない空爆、市街地で頻発する発泡と戦闘、対象も定かでない爆弾テロ。どれもシーナが味わわずに済んだ恐怖だ。だが戦場の街で育ち孤児たちを傭兵として束ねているワーグは、そんな恐怖もよく慣れ親しんでいるだろう。それを自分の武器にすらしているかもしれない。
 暗闇の中でばらばらだったなにかが、かちりと音を立てて噛み合った気がした。ワーグはきっと暴力の炎で焼かれ、その灰の中から掘り出したもので自分をゼロから作り直したのだ。

 気付くと歯を食いしばり、布団を握りしめていた。ブラウスも下着越しに汗でじわりと濡れている。
 あの元気があり余っていて、いつも陽の光のように笑っていたワーグ。なにもかもが大人たちのためのジェスチャーゲームとしか思えなかったあのときのシーナにとって、ワーグの笑顔は世界の素朴な善良さ、楽観的な未来の全てだった。世界中が、この子がこの子のままでいられるようにあって欲しいと祈った。ワーグを守ることも、少しだけなら、自分にもできると思っていた。
 しかし、自分はそれに失敗したのだ。これ以上なく無惨なかたちで。

 震えが止まらなかった。シーナは自分の中で大きな感情のうねりが暴れているのを抑えようと、深呼吸した。効果はなかった。だが、自分がやりたいこと、やらなければいけないことははっきりした。
 ワーグを止めなければならない。

 マリアに会いに彼女の部屋に入るなり、シーナは一枚の書類を押し付けられた。
「昨日倒れたのは、この人物に関係があるのですか」
 書類はワーグに関する調査報告だった。粗い写真が貼られている。その中でワーグは武装した若者に囲まれながら、前方のなにかに厳しい視線を注いでいた。
「ええ、そうです」
 マリアはもうワーグと自分の関係について概要を把握しているはずだ、とシーナは判断し、率直にいくことにした。今の状態でマリアと複雑な駆け引きをするのは無理がある。
「あなたの過去とそれにまつわる後悔のすべてを知りたいとは思いません。わたしはそんなものに特段興味を持っていません」
「でしょうね。わたしも個人的な理由を他人に理解してもらおうとは思っていません」
 ふう、とマリアがため息をついた。シーナもつられそうになるが、我慢する。反撃されて話がこじれる前に話を進めたかった。
「それで本題ですが、委員会の今回の命令の件、ひ……カリン様に同行することにしましたので、ご報告まで」
 マリアの目つきがわずかに険しくなるが、気付かない振りをする。
「ああ、『ルドノアの子どもたち』の資料、わざわざありがとうございました。いつもながらシスター満月の人脈には感服します」
 言葉を重ねながらも平静を装えているか不安になって、背筋を汗の粒が伝った。マリアの視線が秒刻みできつくなっている気がする。
「それで彼らの潜伏場所……」
「ミズカンダート」
 じろりとはっきり睨みつけられた。
「あなたにとって、いまさらあの国はそれほど重要なものですか?」
「は?」
「後悔と強迫観念があなたを衝き動かし、並外れた魔術技師にしたのは想像にかたくない。ときにそういう特殊なモチベーションが素晴らしい結果をもたらすことを、わたしは理解しています。だが変えようのない過去というものがあなた自身に牙を剥いたのなら、あなたはそれを捨てるべきだ」
「シスター満月?」
 シーナには、マリアがなにを言いたいのか飲み込めなかった。
「現在に目を向けなさい。今あなたは、自身が積み重ねたものを持っているでしょう。あなたはもう、過去への執着なしに前へ進めるようになっているはずです」
 マリアの言葉に熱があった。視線の強さは率直だが、言葉はどこかまわりくどい。こんなマリアは初めて見た、と妙に冷静な気分になりながらシーナは思った。
「あなたのモチベーションにするべき、今までと違う新しいなにかは、きっとあなたのすぐそばにあるはずです」
 そう言って、マリアは大きく息を吐き出した。シーナに向けた視線には先ほどまでの強さがないかわりに、彼女の様子をうかがう冷静さが戻りつつあった。
「わたしは、ワーグを止めなければいけないんです」
 しかし、シーナの結論は変わらない。シーナはマリアを正面から見据え、そう告げた。マリアの様子には驚かされたが、シーナのスタンスはかえってはっきりした。
「ワーグ=リフェルドの居場所は現在捜索中です。確定し次第、すぐにカリン様に命令が下るでしょう。考えなおす時間は限られていることを忘れないように」
 しばらくにらみ合いが続いたが、マリアはどこかばつが悪そうに手元のコンピュータに視線を落として言った。言いたいことはいろいろあったようだが、ひとまずシーナの決断を了解してくれたようだ。
 退室すると、自然と大きなため息が漏れた。身体の力が抜けると、昼までベッドにいても抜けない疲労があるのを感じた。だが、本当に大変なのはこれからだ。シーナは身体を引きずりながらラボを出た。

 カンダート城に来るのは数年ぶりだったが、以前より人の気配がなく、それをシーナは意外に思った。カリンの本当の身体は教会が押さえていると聞いていたから、城は教会の兵士たちが包囲・制圧していると予想していたのだ。しかし城には、兵士の姿も使用人の姿も見えなかった。
 扉はシーナが近づくと誘うように開くから、一応訪問は歓迎されているようだった。シーナは、カリンが処刑者になる前、まだ城によく来ていたころは、小さな人形やぬいぐるみが城の案内をしてくれたことを思い出した。あのころカリンは等身大の人形はほとんど動かせず、動かせるのははっきりと人間とかけ離れたものばかりだった。
 扉の開く方へ誘導されるまま城の中を進むと、シーナが初めてカリンと会った広間に出た。ただ、あのときのカリンそっくりの人形はすべて片付けられ、かわりにブティックにあるようなマネキン人形が並べられている。シーナはマネキンに着せられた服に既視感を覚えたが、すぐに気付いた。どれも昔、シーナが選んでカリンが着た服だ。シーナはいばら姫の服装をしたマネキンに触れてみた。一般的な樹脂素材でできた、ありふれたマネキン人形だった。
「姫……」
 目を閉じてカリンの義体の感触を思い浮かべる。目の前のマネキンとはまるで違う、と思った。魔術で操りやすいように人体の構造を魔力親和性の高い素材で再現した義体とただのマネキンでは、かけられた手間が違う。それはかつてこの広間に置かれていた人形も同じだ。あの人形たちは、一体一体がカリンに極限まで似せようと職人が作った美術品だった。それに対してマネキンたちは目も睫毛も造形されておらず、すすんで匿名性を持たせようとしているように思える。一体一体の個性もないから、同じ金型で作られたのかもしれない。

 シーナがマネキンから離れようとしたときだった。マネキンの一つ――親指姫が動き出した。あの時とは違い、姫の魔術を心のどこかで予期していたシーナは驚かなかった。親指姫はステップを踏みながら広間の中央に進み出る。姫はなにをするつもりなのだろう。そう思ってシーナは親指姫を追いかけようとすると、親指姫に続いて白雪姫が、人魚姫が、マネキンのお姫様たちが次々と動き出した。間違いなくカリンの操作魔術だ。しかし、実物サイズのヒトガタを同時にこれほどの数動かすところを見たのはシーナも初めてだった。
 親指姫がくるくるとつま先立ちで回転し、軽やかなジャンプを決めた。それに見とれていた人魚姫が、親指姫の動きを真似しながらその後を追いかける。ステップから二体同時に大きくジャンプし、親指姫は立ち止まった。マネキンたちは声を出さないし音楽もかかっていないから、広間には絨毯でくぐもったマネキンの足音とその手足が空気を切る音だけが響いている。激しくも静謐な踊りだった。
 人魚姫は親指姫を追い抜いて踊り続け、今度はマネキンたちの中にいたいばら姫の手を取ると、そのまま力を込めてマネキンたちの群れからいばら姫を引き寄せた。いばら姫はマネキンの群れから引っぱり出されると、人魚姫の手を離し、群れから出た勢いでスピンしながら速いステップで広間を駆け抜ける。高いジャンプを決めて壁に飾られていた靴を取り上げ、再びマネキンの群れに戻っていく。一体のマネキンの前でかしずき、靴をうやうやしく差し出す。その靴にシンデレラが足を入れた。靴を履いたシンデレラもまた、全身を満たす歓喜の感情を表現するかのように、回り、跳び、踊る。広間を大きく使って再びマネキンの群れに戻ってくると、一人寝かされていた白雪姫を抱き起こし、キスした。白雪姫は目覚め、シンデレラと固く抱きしめ合った。
 全てのマネキンの動きが止まった。ここでマネキンたちのショーは終わり、ということだろうか。カリンの意図は分からないが、その魔術の進歩ぶりはよく分かった。カリンは昔、自分と似せた人形の一体しか動かすことができなかった。それはカリンが人間に近いものほど『自分に似ている』と思うことができないのが原因だった。あのときのカリンは、明らかに人間でない小さな人形やぬいぐるみやは許容できて、人間に似せた大きさ、カタチのものは受け入れられなかった。マネキンはカリンの許容できないものの最たるものだっただろう。しかし今のカリンは、教会の処刑者として戦う中で複数義体をローテーションで運用したり、他人の身体すら奪うこともできるようになった。ならば多数のマネキンを操ってショーを見せることくらい、わけのないことかもしれない。これは単純な魔術の進歩ではなく、カリンの内面の変化によるものに思えた。つまり、それだけ姫は変わった、ということなのだろうか。わたしはそれに気付いてなかったのだろうか――シーナは胸のうちがざわめくのを感じた。
 シーナはマネキンたちに拍手をするべきか少し悩んで、結局胸の前で小さく拍手した。それに答えてか、最後のマネキン、白雪姫とシンデレラが手をつなぎ、ステージから退場するように広間の奥の扉へ歩き出した。シーナが一度も通ったことがない扉だった。両開きの大きなその扉の奥になにがあるのか、シーナは以前から気になりながらも、結局聞けずじまいになっていた。扉が開き、二体のマネキンがそれをくぐる。経緯からすると、ついてきなさい、という意味で間違いない。マネキンたちのわきから扉の奥を覗いた。他と同じ城の廊下が数メートル続いて、またすぐに扉がある。おかしい、とシーナは感じた。扉の間隔が近すぎる。どういう意図でこんな間取りになったのか、見当がつかない。マネキンたちが離れていく。シーナは二体のあとを追った。
 シーナが広間の側の扉を通ると、そちらの扉が閉まり、奥側の扉が開いた。二つの扉は同時に一つしか開かないようになっているのか、と扉を振り返って、シーナは驚愕した。広間側から見ればただの扉のように見えていたそれの廊下側は、人の腕ほどの太い金属シャフトでロックされ、扉全体にプラチナと銀の彫り物でなにかの魔術を刻み込まれていた。マネキンたちは奥の扉をくぐるところだった。シーナは得体のしれない寒気を感じながらその後を追った。
 奥の扉の先は、地下へと続く階段だった。壁はむき出しのコンクリート、床はタイルで作られている。もはやシーナの知っているカンダート城とは別の施設のようだった。階段を降りてまた一つ扉を抜けた先は搬入用の業務エレベーターで、それに乗ってさらに地下へ進んだ。そして今までの扉よりひときわ巨大な扉の前に辿り着いたところで、二体のマネキンは立ち止まった。
 地上の広間の扉からここまで、要所要所で厳重な機械的・魔術的封印が施されていたが、この扉はその大きさに合わせて封印も最も強力だった。見上げるほどの高さの扉には丸太のような金属シャフトが縦横に走り、周囲の壁面や床、天井と扉をつなげている。魔術も貴金属への彫り込みに加えて宝石も用いられていた。
 シーナがまず思い浮かべたのが、金融機関の金庫だった。正規の方法以外で中にアクセスするコストを限りなく高め、侵入者の銃弾、爆薬、その他もろもろの脅威から中の金品を守るための設備だ。次にシェルターを連想した。空爆、核攻撃に耐え、攻撃の数日間か数週間を生き延びるための避難所だ、と。
 しかし、シーナの中の冷静な思考はこの連想を逃避だと切り捨てていた。この扉が中のものを守るためのものだと考えるのは、理にかなわない。シーナは扉までの道を振り返った。地上側、広間の側からはただの扉に見えて、地下側、この扉の側から見えるのは何重もの扉と封印だ。
「姫……」
 二体のマネキンは、もうぴくりとも動かない。シーナは扉に触れた。金属の冷たい感触が自分の体温をほんの少しずつ奪っていく。この奥になにがあるのか、姫はなにを見せたかったのか、シーナは理解した。この扉の奥に、本当の姫がいる。だが姫は守られているのではなく、閉じ込められているのだ。ここは、巨大な檻なのだ――。

 広間に戻ってくると、どこからか流れてくる音楽に合わせてマネキンたちが踊っていた。肩に触れられ、振り返る。シンデレラの衣装を身につけた、義体のカリンだった。
「姫、わたし――」
「わたしと踊ってくださる?」
 カリンは少し申し訳なさそうにしながら手を差し伸べた。
「ダンスなんて無理です」
「いいから」
 カリンはシーナの手を掴み、広間の中央に誘った。
「ですが姫……」
「ただ二人で手を繋いで、音楽に揺られていればいいの」
 抱き寄せられてシーナは硬直した。すぐ近くにカリンの瞳がある。見よう見まねで腰に添えた手からも、カリンの――義体の細さと硬さを意識してしまう。
「力を抜いて。音楽とわたしを感じて」
 シーナは目を閉じた。音楽に、カリンのリズムに合わせるように意識するうち、だんだん二人のリズムが溶けるように合ってきた。自分の半分を音楽に、もう半分を相手に任せると、不思議と落ち着いた気分になった。
「本当のことを言うとね」
 二人の視線が絡む。カリンは恥ずかしげに少し目を伏せた。
「初めて会ったあのとき、あの人形を羨ましいって思った。だから操れるようになったんだと思う」
 羨ましい――自分もそうなりたい。それは、『自分に似ている』とは違った、けれどどこか近しい気持ちかもしれない。
「ありがとう。あなたのおかげよ、シーナ」
 カリンの言葉に望外の喜びを感じながら、シーナは続く言葉を聞きたくないと思った。
「やっぱりわたしは一人で行くわ。シーナはここに残っていて」
 ゆったりとした音楽のリズムに溶け合っているのに、心にはまだ距離があった。シーナの瞳から涙がこぼれ、頬を伝った。
「ごめんね、シーナ」
 自分のことを案じてくれた上でカリンは決めたのだとシーナには分かっている。けれどシーナも、カリンの心遣いをそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
「わたしも行きます。わたしにも行く理由があるんです」
 あの国にはワーグがいる。シーナ自身の過去と悔恨が。
「わたしのための旅でもあるんです」
 涙があふれ、嗚咽がこみあげてきた。
「そう……」
 シーナには、泣けない義体の中でカリンも泣いている気がした。
「いっしょに行こう」
 ダンスの途中で静止したマネキンたちに囲まれて、二人はそっと唇を重ねた。

 三日後、監視衛星と現地の協力者からワーグたちの潜伏場所の情報が入った。旅立ちのときだった。三時間後に出発せよ、と信仰委員会から指令が下されてすぐ、マリアがシーナを訪ねてきた。
「それで、まだ気は変わらないのですか」
 マリアはてっきり諦めたものだと思っていて、シーナは少し驚いた。
「端的に言って、わたしたち礼拝技術部と教会にとって、あなたの研究者としての価値は、カリン様に優先する。あなたの自己認識とわたしたちの評価に齟齬があるようだから言っておきますが」
 シーナは、マリアの言葉が飲み込めず、彼女をじっと見つめた。
「姫――カリン様を切り捨てろ、と仰りたいので?」
 答えは無言だった。代わりに深い皺の刻まれた目元から、鋭い視線でまっすぐに見つめられる。だが、シーナには姫を切り捨てるつもりも、ワーグに背を向けるつもりもなかった。しばらく睨みあって、またしてもマリアは目線を外してため息をついた。
「あなたにはまだやってもらいたい案件があります」
 目尻のあたりを指で揉みながら、どうでもよさそうな投げやりな口調だった。
「ラボの別チームからあなたの研究室や設備をよこせと非公式の要請がありましたが、つっぱねておきます。予算も今期分はそのまま、再編成なしです。ただし、今期までとします。それまでに本来の職責に復帰し、自分の設備、予算、立場を守るように」
 あなたの居場所は残しておきます、だから必ず帰ってきなさい――マリアは、遠回しでそっけない、突き放した態度を取りながら、そう言っていた。
 マリアが出ていってからシーナはマリアの言葉の意味を飲み込み、胸の中でこみ上げるものがあるのを感じた。

 できるうる限りのことはしたつもりだった。だが、自分たちを取り巻く状況の厳しさは変わらない。生きて帰ってくるところを想像できなかったが、それでも選ぶべき他の選択肢は思い浮かばなかった。この先に自分の終着点がある、という確信はある。それに恐怖を感じないといえば嘘だった。けれど。
「行きましょう、シーナ」
 自分は一人でない。共に行く理由は共有できなくても、姫は一緒にいてくれる。だから恐怖に包まれても前に進めると思った。

 そうして二人は死の旅に出た。